メキシカンダンディパパの思考録

旅とフットボールとラーメンの人

選ぶことは何かを捨てること、歳を取っても変わりたくないこと

こんにちは、1990年生まれの30歳、新田空馬(くーま)です。

 

思いつきで整理できてない文をつらつらと書き連ねたあと、数日寝かして頭と文章を少し整えて見直してからからブログに投稿するタイプです。

 

今日は、前置きで色々回り道した上で、最終的には、最近感じていることに関して、自分への戒めだったり、自分を見つめ直す意味合いで書いていきたいと思います。

 

まず、何かを選択すること、何かを決断することは、何かを捨てることでもある。

 

・他のスポーツではなくサッカーを選んだこと

・高校進学と共に、親元を離れて寮生活を始めたこと

・大学では東京に出ることにしたこと

・大学でも体育会でサッカーを続けたこと

・世界に旅に出る予定が、お金がなかったから普通に就職したこと

・友香と付き合い、結婚をしたこと

・転職も考えたけど、残ることにしたこと

・また、平日のトレーニングをするかどうか

・ラーメンを食べるか他のものを食べるか

 

こういったシンプルな決断の連続によって、今の自分がいる。大きな決断に見えることもあれば、小さな決断に見えることもある。決断に時間がかかったこともあれば、ほとんど時間がかかっていないこともある。2つの選択肢から選ぶこともあれば、複数の選択肢から選ぶこともある。また、今までやっていたことを「辞める」「継続する」という選択ももちろんある。

 

ほとんどの場合、その判断で獲得できることと、失われるものの両面があるので、一方を選ぶことでのメリットと、一方を選ぶことでのデメリットを比較しながら判断することが多い。

 

まぁどっちでもいいかとあんまり考えずに選んだけど、結局良い方向に転がったかということも多々ある。また、選んだ道を正解にしようと努力して、結果的に正解ときちんと思えている人も多い。

 

常に、自分の選択の先には、色んな人々との出会いがあり、色んな組織との出会いがある。その出会った(所属することとなった)組織のカラーや、繋がる人間達のカラーによって、自分自身の人間性ができたり、変化していったりする。

 

だからこそ、子供時代にどういう環境、組織で育つかは大きな意味を持つし、選択した先がよく見えていない子供に判断させるのではなく、色々経験してきた親が選択をすることも多く、それは即ち、子供が走りたいときに走りやすいように静かにその先の道を整備していることでとある。選択肢が多く、360度どこへでも行けてしまう都会においては、なおさらその傾向は強い。

 

確かに、自分が親でも、子供が何かをやりたいとなったときに、少しでもそのやりたいことがうまくいく、成功確率が高い環境においてあげたいと、思うんだろうな。

 

進路選択、スポーツでいう組織選択、ということをひとつイメージして上記のことを書いたが、中学高校という思春期、そしてある程度の自由を手に入れる大学、13歳から22歳までの10年間、学校や部活動などの所属組織で形成される人間的な部分は要素として大きいように感じる。

 

ただ、実際にはまだまだ大学生だって当たり前のように人格形成においても未完成であり(※)、そこにプラスして自身で稼いでお金を持つようになった社会人の若手時代、役職とパワーを手に入れた社会人の中盤から後半と、年齢を重ねるにつれて、新たなモノや武器を手に入れるなど、人生において環境や立ち位置が変わるので、自身の人間性や色合いだって変わっていく。

※人格が完成するってナニ、って話ではあるが。

 

つまり、人間性や人格は思春期に形成される、なんて言ったりもするし、基礎基本の土台や大枠はそうかもしれないけれど、上記のような環境変化によって、大人になってからだって常に変わっていくことのほうが多い。

 

そう考えると、30歳である今の自分の一つ一つの判断も、自身を成長させるためには非常に重要である。行くも行かんも、やるもやらんも自分次第、その先の結果も自分の選択の結果であり、その結果によって少しずつ少しずつ自分の思考や形が微妙に変わり続けていく。

 

選ぶことは失うことでもあると冒頭で言ったが、自分は欲張りな性分なので、二兎を追って二兎を得たいとも思ってしまう。

 

ラーメンかカレーかと言われたら本音はどっちも食べたい。

 

まぁ、でも結局はどちらかになることが多い。進路選択においては基本的に一箇所を選ばないといけないし、会社選択においても、今のところ正社員としては一箇所を選ぶということになっている。

 

一旦まだ2020年時点での今の時代は。

 

そんなこんなで、二兎を得たい自分が、8年前に苦渋の決断で選んだ「サラリーマンになる」という決断。そこから8年経っての今の感覚と、意識しないと変わってしまうなと思っていること。

 

まず、サラリーマンになって良かったか悪かったかでいうと、結論良かったとは思ってるし、自分でこの選択を正解にして来れたかなとは思っている。既に独立して経営者として様々な経験値を積んでいる同世代と話したり、「普通」とは言い難い面白いコトをしている人間を見ると、自分はこのままでいいのか、と思うこともあるが、まずはOKまだまだこれからだとも思っている。

 

サラリーマンになったことで得られたことは、馬鹿みたいにたくさんある。人や仲間たちとの繋がりを始め、ビジネスとはなんぞやってこともそうだし、ハチャメチャだった自分が一般的な「普通」の感覚を手に入れることができたし、なんなら妻の友香もそこで手に入れてしまった。

 

最後のは要りませんか?笑

すみません。

 

逆に、失いかけていることというか、これから歳を取っても変わりたくないこと、というか、気をつけなければいけないこととしては、「物事の捉え方」であり、「その時に出てくる第一声」。

 

説明します。

 

社会人を約8年経験した今の自分は、もしかしたら、ムカシの自分よりも、ちょっとドライになっていて、少し傲慢になったというか、物事に対しての軽いプチ批判が、少しだけ多くなったような気がしている。

 

街を歩いていたりして、何かに遭遇した時に、「なんでそうなんねん」「いやいや普通におかしいやろ」と一般的な「普通」感覚ベースで、正論から入ってしまう感じ。わかるかな?

 

まぁ、自分の中ではソレを面白いと捉えてツッコミ的な感じで笑いながら言うことのほうが多いけれども、それでも、捉え方は気をつけなければいけないなーと、思ってる。

 

もっともっと、柔軟に、柔らかく。

 

これって、「ちゃんと社会人をしている」人ほど、そうなる可能性が高いかもしれない。「ちゃんと社会人をしている」の定義はわからないが、なんだろうな、「新卒からずっとサラリーマンをやっている」とか「東証一部上場の大企業でビシバシ働いている」とか「若い頃から活躍してきて、早くから人を指導する立場に立っている人」とか、そういった類なんかな。

 

東証一部上場とか、人を指導する立場とか書いてみたのは、周りよりも、少しこう鼻が高いではないですが、そういうポジショニングを取れてしまう人達だったり、そういうマウンティングができてしまう人達という意味合い。誤解を恐れずに言うてます。

 

どういうことか。

 

いちサラリーマンとしての「ちゃんと」が染み付いてしまうことで、何が良くて何が悪いが、サラリーマンとしての尺度や、その業界の尺度やらで認識をして、判断してしまう。それ自体は育ってきた環境であり、属していた組織の環境なのでもちろんしょうがないんだけども、人を指導する立場になってくると特に、「これはありえない」とか「それはナイ」とか、今まで自分が存在していたところでの当たり前が基準になってしまうので、社会で何かを見たときに「なんでそうなってんねん」とか「いやいや、そもそもこうしたらええやん」とか、「まじありえんな」とか、そう捉えてしまうことが多くなってしまう可能性が高い気がする。

 

仕事においては、お金を頂いている以上、高い質を担保しなければいけないし、より良いサービスを目指さないといけないからそれでいいんだけども、私生活においては、もっと、世界を広く捉えたくて、自分が考える当たり前の基準を曖昧にしておかないといけないなと感じている。

 

それができないと、世界を目の当たりにしたり、街を歩いているときに、自分の基準から外れることが起きたときに、口から出てくるのが文句や批判や不平不満な気がする。自分の当たり前の基準が確立されればされるほど、口から発される文句や不平不満の割合が増えてしまって、自分の周りにいる人間を不幸にするし、結果的に自分が不幸になっていく。

 

もっともっと、何があっても「そういうこともあるよね~」「そんなもんよね~」「アホやんw」なんて笑っていられることが、自分の周りや自分をより幸せにする。

 

自分の周りで起こる事象は、自分ではコントロールが効かないことのほうが圧倒的に多いからこそ、「その捉え方」と「自分の口から出てくる第一声」でその場の空気を温かく包み込めるのか、マイナスな空気にしてしまうのかが決まる。

 

「そもそもこうしたらええやん」「○○したら解決すんやん」とか、自分の中で解決策がすぐ浮かんでいることはいいことなんだが、それができてないのは、人的リソースの問題かもしれないし、お金という資源の問題かもしれないし、そもそも情報がそこに行き届いていないということかもしれない。

 

あなたの会社ではできる当たり前が、そこの当たり前ではないからそうなっているだけ。もし変えたいなら、自分がどうやって変えれるかを考えたほうがいいし、別に変えたいとまで思わないのであれば、緩く捉えてもええんちゃうのー、って感じ。

 

と考えたときに、「ちゃんと社会人をしている」ことは、自分一人だと経験することのできない経験を積むことができ、自分自身が学生時代には関わってこなかった方々の様々な価値観を感じることができ、一般常識的な観点を身につける上で、とてもプラスであると同時に、そこに染まれば染まるほど自分の世界が狭くなっていってしまうリスクがあることも頭にいれておきたい。

 

組織を作る、そしてその組織でまとまりを持つためには、間違いなくルールや基準が必要だし、そのルールや基準にのっとって、組織に対しての価値観や認識の共有を図っていく必要はあるけど、その出くわした物事を組織としてではなく「個として捉える」「個として受け入れる」ときには、もう少し緩く、かつ穏やかに感じたい。

 

「年齢を重ねると、頑固になる・他責になる・文句が多くなる」などよく言われたりもするし、そういう人を見たりもするが、おそらく、サラリーマンや企業人として長く働いている人間こそ気をつけたほうがいい。あなたの感じていることは、間違ってはいないし、たしかにそうしたほうがいいんだと思うけど、たぶんそうはできない何かがあるんだ。

 

自分自身に特に何かがあったわけではないけど、30歳の節目に、ここまでの10年間と、ここから10年間をどう生きたいかを考えてて、こんな感じになった。

 

別にサラリーマンや企業人が悪いってことは一切ないし、ホントに小さなことではあるんだけど、物事の捉え方と、自分の発する第一声って、自分と関わる周りの人を幸せにする上では非常に大事なので、歳を取って色んな経験を積んでも変わりたくないところだなと思った。

 

あなたが、歳を取って変わりたくないことは?

知らず知らずのうちに変わりかけてしまっていることは?

 

少し振り返ってみても良いかもですね。

長くなりましたが、ではまた!

 

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※写真は、8年前のアルゼンチン。

 

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