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中南米3大文明を徹底比較【マヤ・アステカ・インカの違いと特徴を分かりやすく解説】

みなさんこんにちは、メキシカンダンディパパです。メキシコと聞くと、多くの人が思い浮かべるうちの一つに、「古代文明」もあるかと思っています。中南米には、マヤ文明・アステカ文明・インカ文明という三つの代表的な文明が存在しました。面白いのは、それぞれがまったく違う環境で発展したことです。マヤはジャングル、アステカは湖、そしてインカはアンデス山脈という過酷な山岳地帯で文明を築きました。

 

 

巨大なピラミッド、精密な天文学、そしてスペイン人による征服、、、等々、本日は、そのあたりの3つの文明の違いをまとめていければと思いますので、まずはそれぞれの文明の位置関係を、下記地図から確認してもらえればと思います。

3つの文明の違い

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★アステカ文明 ― 湖上に築かれた戦士の帝国★

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テノチティトランは、14~16世紀にメキシコで繁栄したアステカ帝国の首都で、現在のメキシコシティです。メキシコ高原のテスココ湖(現在は干拓され、北側にはAIFA空港などがある)に浮かぶテノチティトランとトラテロルコの二つの島に築かれた都市は、湖面を埋め立てながら市域を広げ、1519年には面積はほぼ13平方Kmになり、人口は約8万人(別の資料では20~30万人)と推定されていました。当時ヨーロッパで10万を超える都市はパリ(仏)、ナポリ、ヴェネツィア、ミラノ(すべて伊)しかなく、スペイン最大の都市セビーリャでさえ4万5千人に過ぎなかったので、世界的に見ても大規模な都市を作っていたことがわかります。

 

この巨大な「湖上都市」は、大神殿・宮殿・貴族の邸宅のある区画を中心として東西南北が4つの街区(バリオ)に整然と区分されていました。これも中世ヨーロッパの都市には見られなかったために、スペイン人たちが驚いた点でした。町の住居は水路に面していて、どの家もカヌーを持ち、水路が利用されていました。現在のメキシコシティはこのテノチティトランの上に建築されてまして、市の中心のソカロ広場(憲法広場)はテノチティトランの広場だったところになります。


1519年、スペイン王カルロス1世の時代、キューバから大陸に上陸したコンキスタドール(征服者)の一人エルナン・コルテスは、拠点としてベラクルスを建設した後、内陸のアステカ王国の都、テノチティトランに向かいました。アステカ帝国の皇帝モクテスマ2世はその軍勢に驚き、当初は戦わずに迎え入れましたが、やがてコルテスによって事実上の人質にされてしまいました。最終的に国王となったクアウテモクは反撃に転じ、一時はコルテス以下のスペイン人をテノチティトランから撤退させました。

 

1521年、コルテスは態勢を立て直し、900名のスペイン人兵士を火砲と騎馬で武装し、テノチティトランを攻撃しました。アステカ人は約3ヶ月にわたって闘いましたが、遂にスペイン軍に敗れ、首都は陥落し約3万のアステカ兵が殺されました。その敗因は、スペイン兵の鉄砲と馬に対して、弓矢ぐらいしかなかった武器の差とよく言われますが、それにも増して首都のアステカ族以外の周辺部族インディオが、王の専制的支配に苦しめられていたために(重い貢納=税、人身供犠のための捕虜、軍事的支配に嫌気が差していて)、コルテス(スペイン軍)に協力したことが大きかったのです。テノチティトランのアステカ人は、コルテス以外にも何万人にも上るインディオの他部族と戦わなければならなかったのです。インディオたちの多くは、コルテスをむしろ解放者として歓迎したという側面があったのでした。

 

この、「長年支配されていた側が、攻撃を仕掛けてきた外部勢力と組んで元の体制を崩した」というのは、1861年~1865年のアメリカ南北戦争のときに、リンカーンが奴隷解放宣言を出して、南部にいた奴隷約18万人を北軍に参加させて北軍が勝利した、という流れにとても似ているなと思いましたので、その中身に関しては、下記ブログをご確認ください。

kuma0112.hatenablog.com

 

ただし、アメリカ南北戦争との違いは、コルテスは解放者ではなく、征服者であったことです(リンカーンの場合は、戦争終了後に奴隷を解放したので、奴隷の自由度が上がった)。彼はテノチティトランの市街を破壊し、運河を埋め、その富を奪い、部下に配分しました。また征服したインディオに対しては、エンコミエンダ制*を実施するなど、事実上はインディオを奴隷のように扱うなどしました。

*エンコミエンダ制:スペイン人が先住民(インディオ)の労働と税を支配する制度。先住民は主に鉱山労働、農業、建設、金銀採掘をさせられました。特に有名なのがボリビアのポトシ銀山や、メキシコのサカテカス銀山などで、ここで取れたメキシコ銀はアカプルコを通じて中国やフィリピンなどに運ばれるなど、スペイン帝国の大きな財源になりました。スペインの理屈では「奴隷ではなく、保護とキリスト教教育を与える代わりに労働してもらう」という建前でしたが、実質的にはほぼ奴隷労働でした(目的は、征服者であるエルナン・コルテスと、フランシスコ・ピサロなどの部下たちに報酬を与えること)。エンコミエンダ制は強制労働、暴力、疫病によって先住民人口が激減し、メキシコでは(研究者によって差はありますが)征服前は約2000万人だった人口が、100年後には約200万人になったとも一説では言われています。※ただ、1542年にはスペインでも新法が成立したために、エンコミエンダ制は徐々に弱くなっていきましたが。

 

なお、アステカ帝国消滅*の出来事をもって「アステカ文明の終焉」と説明されることが多いのですが、勘違いしてはいけないのは『滅びたのは帝国であって、人々ではない』ということ。アステカ人は、民族としては「ナワ系民族」と呼ばれる文化圏の一部であり、現在でもメキシコ各地に数百万人存在していると言われています。つまり言い換えると、メキシコという国は、アステカ文明の子孫が生きる土地の上に成立した国家でもあるのです。

*アステカ帝国消滅のもう一つの大きな要因:それは、ヨーロッパから持ち込まれた疫病です。スペイン人がアメリカ大陸に到達したとき、彼らが意図せず持ち込んだ病気の中で最も大きな影響を与えたのが「天然痘」でした。1519年にコルテスがメキシコに到着した時点では、まだ大規模な流行は起きていませんでしたが、スペイン人と共にやって来た奴隷などを通じて天然痘が広がり、1520年頃にはアステカ帝国全体で大流行します。この疫病は、ヨーロッパではすでに長い歴史があり、多くの人が免疫を持っていましたが、アメリカ大陸ではこれまで存在しなかった病気だったため、先住民はほとんど免疫を持っていませんでした。その結果、天然痘は都市や村を次々と襲い、戦う前に多くの人々が病気で倒れていったとも言われています。実際、アステカ帝国の皇帝も疫病で亡くなっており、帝国の政治や軍事体制は大きく混乱しました。つまり、テノチティトランの陥落は単にスペイン軍の軍事力によるものだけではなく、周辺部族の協力、火器や騎馬などの軍事技術の差、そして天然痘による人口減少と社会混乱といった複数の要因が重なった結果だったのです。歴史学者の中には、「スペイン人がアステカ帝国を滅ぼした」というよりも、疫病が帝国を弱体化させ、その後にスペイン人が征服したと指摘する人もいるほどです。

 

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★マヤ文明 ― ジャングルの中に築かれた都市文明★

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マヤ文明は、現在のメキシコ南部、グアテマラ、ベリーズ、ホンジュラス西部などに広がった文明で、紀元前2000年頃から1500年以上続いた長寿の文明です。アステカ帝国が14〜16世紀の比較的短い期間の国家だったのに対し、マヤ文明は非常に長い時間をかけて発展した文化圏でした。特に栄えたのは紀元250〜900年頃で、この時代は「古典期」と呼ばれています。この時代には、熱帯雨林の中に巨大な都市国家がいくつも築かれました。

 

代表的な都市としては、メキシコのパレンケに加え、ティカル(現グアテマラ)、コパン(現ホンジュラス)などがあります。これらの都市には巨大なピラミッド神殿、王宮、球技場、広場などが整然と配置されており、ジャングルの中に突然巨大都市が現れるような景観だったと考えられています。現在でも密林の中から新しい遺跡が発見され続けていまして、近年のレーザー測量(LiDAR)によって、これまで知られていなかった都市や道路が多数見つかっています。

 

そんなマヤ文明ですが、アステカ文明やインカ文明とは違い、巨大な統一帝国は存在しませんでした。代わりに、数十〜数百の都市国家が存在し、それぞれが王を中心とする独立国家として競い合っていました。例えば、ティカル王国、カラクムル王国(現メキシコ)、コパン王国(現ホンジュラス)などが互いに同盟や戦争を繰り返していたことが、石碑や壁画の記録からわかっています。つまりマヤ文明は「一つの帝国」ではなく、「文化を共有した都市国家ネットワーク」のような存在だったのです。これは、古代ギリシャの都市国家「ポリス」に近い構造*とも言われています。

*古代ギリシャの都市国家「ポリス」:古代ギリシャのポリスとは、都市そのものが一つの国家になっている仕組みです。例えば、アテネ、スパルタ、コリントスなどは、すべて独立した国家でした。そして彼らは同じ言語(ギリシャ語)、同じ宗教、同じ文化を共有しながらも、同盟を組んだり、戦争したりしていました。そのため、一つの統一国家を持つのではなく、それぞれが独立しあっている政治構造の様子が似ていると取れます。

 

■マヤ文明の最大の特徴 ― 天文学と暦、文字体系

マヤ文明が特に有名なのは、高度な数学と天文学です。マヤ人は、太陽の動き、月の周期、金星の運行などを非常に正確に観測していました。例えば、マヤの暦は一年を365日として計算しており、誤差は非常に小さかったとされています。また、マヤ文明は「0(ゼロ)」の概念を独自に発明した文明としても有名です。これは世界史的に見てもかなり早い発明でした。また、アメリカ大陸の文明の中で最も発達した文字体系を持っていまして、それを「マヤ文字」と呼びます。長い間この文字は解読できませんでしたが、20世紀後半になって研究が進み、現在では多くの内容が読めるようになりました。その結果、マヤ文明が王朝の歴史、戦争、王の即位、宗教儀式などを詳細に記録していたことが分かってきました。その記録は石碑や神殿の壁に刻まれており、現在では多くの文字が解読されています。つまり、マヤ文明は、歴史を文字で記録する高度な文明だったのです。

 

■それでもなぜマヤ文明は車輪を使わなかったのか

ここでよく出てくる疑問があります。それは「マヤ文明やアステカ文明は高度な文明だったのに、なぜ車輪を使わなかったのか」です。結論から言うと、彼らは車輪を知らなかったわけではなく、適切ではなかったので使わなかったのです。実際に、発掘調査では車輪付きの土製玩具が見つかっていますので、車輪の原理そのものは理解していたことがわかります。ただ、ユーラシアの文明では存在していた牛、馬、ロバ、ラクダなどの荷物を運んだり、荷車を引くことができる大型家畜がほとんど存在しなかったのです(家畜として飼われていたのは、七面鳥や犬程度)。つまり、荷車を引く動物がいないので、人間が背負って運んだほうが効率が良く、車輪を社会インフラとして発展させる必要がありませんでした。もう一つは、地形の問題です。メキシコの文明中心地は山地、密林、火山地帯でした。例えば、古代都市の遺跡であるテオティワカン(メキシコシティ近郊)やパレンケ(チアパス州)の周囲は、現代でもかなり起伏が多いので、舗装道路のない環境では、車輪は意外と使いにくく、こうした環境ではむしろ人間が背負うほうが機動力が高く、車輪はそれほど合理的な技術ではありませんでした。

※なお、インカ文明に関しては、階段状の峻険な山道では車輪よりリャマの方が合理的だったために、大型動物であるリャマを使ってモノを運んでいた。

 

■なぜマヤ文明は衰退したのか

しかし、この高度な文明は9世紀頃から急速に衰退していきます。特に南部の大都市は次々と放棄され、ジャングルに飲み込まれていきました。その原因については現在も研究が続いていますが、有力な説としては長期的な干ばつ、人口増加による農地不足、都市国家同士の戦争、環境破壊(森林伐採)などが重なった結果ではないかと言われています。つまり、一つの出来事で崩壊したのではなく、複数の問題が同時に起きたと考えられています。ただし、ここで重要なのは「マヤ文明が消えたわけではない」という点です。

 

実際に、ユカタン半島にあるチチェン・イッツァ遺跡やウシュマル遺跡は、世界的な観光地であり「失われた文明の遺跡」として紹介されることが多いですが、実際にその周囲まで行くと、そこには普通に人々が暮らしています。彼らの多くはマヤ系の人々だで、彼らは今でもマヤ語を話し、マヤの伝統料理を食べ、マヤ文化の習慣を持っています。現在、マヤ系の人口は600万人以上と言われています。つまり、こちらのマヤ文明も「消えた文明」ではなく、形を変えて現代社会の中に生きている文明なのです。

 

マヤ文明については「2012年に世界が終わる」という有名な話(2021年地球滅亡説)がありましたが、これは誤解です。マヤ暦では2012年12月21日に一つの周期が終わるだけで、世界滅亡を予言したわけではありませんでしたが、ニュースやSNSなどで様々取り上げられ、誤解のままに広がってしまいました。実際にはマヤの石碑にはさらに遠い未来の日付も記録されており、マヤ人はむしろ非常に長い時間スケールで世界を考えていたことが分かっています。

 

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★インカ文明ーアンデス山脈を支配した山岳帝国★

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インカ帝国(インカ文明)は、南米アンデスに生まれた巨大国家で、ヨーロッパ人が来る直前のアメリカ大陸で最大規模の帝国でした。首都はクスコで、最大領土は200万平方kmにもおよび、現在の国で言うと、ペルー、ボリビア、エクアドル、チリ、アルゼンチンにまたがっていました。

 

このインカ帝国の凄いところは、「文字がないのに国家を運営」できていたことです。文字の代わりに使ったのがキープ(結縄)で、縄の結び目で税、人口、食料などを管理していました。さらにキプカマヨックと呼ばれる専門官僚(国勢調査や税務調査を行う)と、チャスキと呼ばれるランナーがリレー方式で情報を伝達する飛脚制度で文字がなくても200万平方kmを超える巨大帝国を統治していたのです。

 

また、インカ帝国には約4万kmの道路があったと言われています。アンデス山脈の崖、谷、ジャングルを繋ぐ道路で、有名なのがインカ道(Inca Road)です。この道路網はローマ帝国の道路網にも匹敵すると言われています。

 

さらには、石造建築が異常に精密なのが特徴でして、インカの石建築はモルタルなし、つまり石と石をそのまま組むのですが、それなのにナイフすら入らない精度であると言われています。クスコにある「12角の石」は非常に有名で、観光名所にもなっています。

マチュピチュの12角の石

なお、アンデス山脈は急斜面、気温差が激しいという特徴がありましたので、そこで作られたのが段々畑です。ここで、ジャガイモやトウモロコシなどを栽培しました。インカ帝国の社会の特徴は、超中央集権国家で、皇帝はサパ・インカと呼ばれました。皇帝は太陽神の子孫とされていました。

 

1530年代、スペイン人フランシスコ・ピサロが侵入し、当時のインカ皇帝アタワルパを捕らえたことで、帝国は崩壊します。帝国崩壊の主な理由としては、①皇帝を人質にされたこと、②インカ帝国が内戦中だったこと、③天然痘が流行していたこと、の3つと言われています。

 

■アステカ帝国とインカ帝国はほぼ同時期に滅亡

面白いことに、アステカ帝国とインカ帝国はほぼ同時期に滅亡しています。下記を見てもらえたらわかりますが、アステカ滅亡(1521年)からインカ滅亡(1533年)まで、わずか12年差しかありません。

1519年:エルナン・コルテス がメキシコ上陸
1521年:テノチティトラン陥落⇒アステカ帝国滅亡
1532年:フランシスコ・ピサロ がインカ皇帝を捕らえる
1533年:クスコ陥落⇒インカ帝国崩壊

 

実はこれは、コルテスがアステカ帝国を滅亡させた作戦がうまくいき、それを聞いてピサロが11年後に同じ戦略を取ったのではないかとも言われています。それが何かというと、アステカ帝国もインカ帝国も 「皇帝を捕まえる」ことで一気に崩壊しました。普通の戦争なら「軍隊同士が戦う、都市を攻める」ですが、彼らは違いました。彼らの戦略は「帝国のトップを捕まえてしまう」というもので、現代で言えば敵国の大統領を最初に拉致する、ようなものです。これで巨大帝国が一気に崩れたのです。

 

今回は、3つの文明を比較として取り上げましたが、メキシコに焦点を当ててみると、下記のような様々なことに気付きます。

 

■メキシコは実は多民族国家

さらに面白くて複雑なのは、先ほど伝えたのはあくまで代表的な文明であり、メキシコには公式に認められている先住民族言語が68言語も存在していることです。代表的な民族としては「ナワ族」「マヤ族」「サポテカ族」「ミシュテカ族」などがあります。これはつまり、メキシコという国が単一民族国家ではないということを意味しているので、構造としてはむしろヨーロッパに近く、多くの民族や文化が重なり合い、その上に国家が成立しています。

 

また、現在のメキシコ社会を理解するうえで、もう一つ重要なポイントがあります。それは、「スペイン文化との融合」です。スペインによる征服以降、メキシコではスペイン人、先住民族、アフリカ系奴隷が混ざり合ったことで生まれた「メスティーソ(混血)文化」と呼ばれるものがあります。現在のメキシコ人の多くは「スペイン系×先住民族」の混血なので、スペイン語を話し、カトリック教会に通い、タコスを食べるのですが、しかしその文化の奥には、マヤやアステカの世界観が確実に残っています。例えば有名な祝日である「死者の日」は、カトリックの祭礼のように見えますが、起源はアステカ文明の死生観にあると言われています。

 

このように、メキシコという国を見ていると、この国は三つの文明が重なってできていることに気付きます。第一層は、マヤやナワといった先住文明第二層は、スペインによる植民地文明第三層は、アメリカの影響を受けた現代資本主義文明。一つの都市の中に、先住民族の市場があり、スペイン式の街並みもあり、アメリカ資本のショッピングモールが同時に存在している、というこの重層構造は、世界的に見てもかなり独特なものなのです。

 

ぜひみなさん、こういった歴史を知った上で観光・旅行に行ってみましょう。

では、本日はこのへんで。

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バルト三国とは?なぜロシアを警戒するのか【NATO・EU加盟とスヴァウキ回廊を分かりやすく解説】

みなさんこんにちは、メキシカンダンディパパです。ロシアによるウクライナ侵攻以降、ニュースなどで「バルト三国」という言葉を耳にする機会が増えましたね。エストニア、ラトビア、リトアニアは、人口を全部合わせても約600万人ほどしかいない小さな国々*ですが、実は現在のヨーロッパ安全保障を語る上で欠かせない存在になっています。その理由の一つが「スヴァウキ回廊(Suwałki Gap)」と呼ばれる、わずか100kmほどの細い陸地です。もしここで戦争が起きたら、NATOとロシアが直接衝突する可能性もあると言われています。

*人口600万人ってどれくらい?:福岡県の人口約500万人とほぼ同じ規模で、日本の人口の20分の1以下。

 

そこで本日は「バルト三国とは何か、なぜロシアを警戒しているのか、スヴァウキ回廊とは何か、なぜ世界中の軍事専門家が注目しているのか」等について整理していければと思います。

 

■バルト三国とは?

バルト海の東側に位置しているため、エストニア、ラトビア、リトアニアの3か国をまとめて「バルト三国」と呼ばれています。地図で見ると非常に小さく見えますが、歴史的にはヨーロッパとロシアをつなぐ重要な地域でした。北は海を挟んでフィンランド、西は海を挟んでスウェーデン、南はポーランド、東はロシアと、まさに大国同士の境界線に位置しているのです。

 

■実は民族も言語も違う

日本では一括りに「バルト三国」と呼ばれますが、実はかなり違います。エストニア語はフィンランド語と同じ「ウラル語族」に属しており、むしろロシア語やラトビア語よりフィンランド語に近い言語です。一方でラトビア語とリトアニア語はインド・ヨーロッパ語族に属します。つまり、日本人から見れば「中国・韓国・ベトナムという全然異なる国をまとめて同じ民族集団と呼ぶ」くらいの大きな違いがあります。宗教も異なります。エストニアは北欧諸国のように宗教色が薄く、比較的世俗的な国です。一方でラトビアはドイツや北欧の影響を受けたプロテスタント(ルター派)が中心、リトアニアは隣国ポーランドの影響も強く、カトリックが主流です。つまり「バルト三国」とひとまとめに呼ばれることが多いものの、実際には宗教や文化的背景もそれぞれ異なる国なのです。

 

■なぜロシアを恐れているのか

最大の理由は歴史です。この地域は長年、ドイツ騎士団、スウェーデン、ロシア帝国、ソ連など様々な大国に支配されてきました。第一次世界大戦後に独立を果たしますが、その平和は長く続きませんでした。

 

1939年、ナチスドイツとソ連は独ソ不可侵協定(モロトフ=リッベントロップ協定)*を結びました。その結果、バルト三国はソ連の勢力圏に組み込まれます。翌1940年にはソ連が進駐したことで、独立国家は消滅しました。その後、多くの住民がシベリアや中央アジアへ強制移住させられ、逆にロシア系住民の移住が進められました。第二次世界大戦後も長くソ連支配は続きました。

*独ソ不可侵協定(モロトフ=リッベントロップ協定)とは?:1939年、第二次世界大戦直前、ナチスドイツの外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップと、ソ連の外相ヴャチェスラフ・モロトフは「独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)」を締結しました。表向きは「お互いに攻撃しない」という平和条約でしたが、その裏では東ヨーロッパをドイツとソ連で分割する秘密議定書が交わされていました。その内容は、「ポーランドを両国で分割し、フィンランド・エストニア・ラトビア・リトアニアなどはソ連の勢力圏とする」というものでした。つまり、バルト三国の人々は何も知らないまま、自国の運命がベルリンとモスクワの間で勝手に決められてしまったのです。その後、1939年9月にドイツがポーランドへ侵攻して第二次世界大戦が始まると、ソ連も東側からポーランドへ侵攻しました。そして1940年にはソ連軍がバルト三国へ進駐し、エストニア・ラトビア・リトアニアは次々とソ連へ併合されました。ソ連はこれを「自主的な加盟」と主張しましたが、実際には軍事的圧力の下で行われたものであり、多くの国々はこれを不法な併合とみなしていました。

 

そして1991年。ソ連崩壊によってようやく独立を回復したのです。現在でも高齢者の中には、「ソ連時代を実際に経験した人」が少なくないため、バルト三国からするとロシアへの警戒感が非常に強いのです。

※ソ連崩壊直前の独立要求①:1987~1991年頃、ソ連支配に反発した人々が、民族歌謡や愛国歌を数十万人で歌いながら独立運動をした。これを「歌う革命(Singing Revolution)」と呼びます。特にエストニアでは超有名で、戦争ではなく歌で独立を勝ち取ったという珍しい事例になります。

 

※ソ連崩壊直前の独立要求②:1989年、バルト三国の人々約200万人がソ連への抗議と独立要求として、エストニア⇒ラトビア⇒リトアニア間約600kmにわたり手を繋ぎました。これを「バルトの道(Baltic Way)」と言い、これは世界史的にも有名な話です。

Baltic Way(バルトの道)


■2004年には3か国揃ってNATO・EU双方に加盟

独立後のバルト三国が真っ先に目指したのは、「二度とロシアに支配されないこと」でした。そこでエストニア、ラトビア、リトアニアは2004年3月に揃ってNATOへ加盟し、5月には揃ってEU(欧州連合)への加盟に成功します。NATOには「加盟国の1か国が攻撃されたら全員で守る」という有名な集団防衛条項があります。つまり、もしロシアがバルト三国いずれかの国へ侵攻した場合、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなども参戦する可能性があります。だからこそ、バルト三国からすると、NATOは自国防衛の生命線だと考えているのです。

 

一方でEU加盟には、軍事面とは別の大きな意味がありました。EUに加盟することで、西ヨーロッパ諸国との経済統合が進み、人・モノ・資本が自由に行き来できるようになりました。これによって外国企業の投資が増え、経済成長が加速し、生活水準も大きく向上しました。つまり、NATO加盟が「安全保障のため」、EU加盟が「経済発展のため」であり、バルト三国は2004年に軍事と経済の両面で完全に西側陣営へ加わったのです。

 

逆にロシア側から見ると、これはより衝撃的な出来事だったのです。冷戦時代は、ソ連本土⇒バルト三国⇒ポーランド⇒東ドイツという広大な緩衝地帯がありましたが、2004年になると、NATO⇒エストニア⇒ロシアになってしまい、特にエストニアはサンクトペテルブルクから約150km程度しか離れていませんので、ロシアからすると、「昔は自分の国だった場所に、今はNATO軍がいる」という感覚になります。そのため、ロシアの安全保障関係者の中には、「2004年のバルト三国NATO加盟こそが、冷戦後最大の地政学的敗北だった」と考える人も少なくありません。

 

■ここで登場するスヴァウキ回廊

そして、バルト三国がNATO加盟国となったことで、新たな安全保障上の課題も生まれました。それが「スヴァウキ回廊」です。地図を見ると、ポーランドとリトアニアの国境付近に細い通路があります。長さは約100km。これがスヴァウキ回廊です。一見すると何の変哲もない国境地帯ですが、西側にはロシアの飛び地であるカリーニングラード、東側にはロシアの同盟国ベラルーシがあるので、ロシア軍とベラルーシ軍が同時に動けば、この回廊を遮断できる可能性があるのです。

スヴァロキ回廊とロシアの飛び地カリーニングラード

平時であれば、ポーランドからリトアニアへ普通に高速道路や鉄道で人も物も移動しています。ただし、問題は有事(ロシアとNATOとの軍事衝突等)です。例えばロシアがカリーニングラードとベラルーシ*から同時に軍事行動を起こし、この約100kmの回廊を遮断した場合、「NATO地上軍の増援、戦車・装甲車、弾薬、燃料、食料、医療物資」などをバルト三国へ陸路補給することが非常に難しくなります。もちろん海路や空路はありますが、バルト海にはロシア海軍が存在していること、ロシアのミサイル射程圏内であること、空域も脅かされることを考えると、陸路ほど安定した補給ルートではありません。つまり、NATO側から見ると「バルト三国への唯一の陸橋」であり、軍事専門家の間では、「ヨーロッパで最も危険な100km」とも呼ばれています。

*ベラルーシについて:ベラルーシはロシアの西側に位置する旧ソ連構成国で、現在はアレクサンドル・ルカシェンコ政権の下、ロシアと非常に強い関係を維持しています。特に2022年のウクライナ侵攻では、ロシア軍はベラルーシ領内を経由してキーウ方面へ進軍しました。そのため欧米諸国からは「事実上のロシアの同盟国」と見られていますし、ベラルーシはロシアとの「連邦国家(Union State)」構想を進めており、軍事面でも極めて密接な関係にあります。スヴァウキ回廊の東側がベラルーシであることから、NATOはロシア軍とベラルーシ軍が連携した場合のリスクを常に警戒しています。

 

■ロシアの飛び地、カリーニングラードとは?

ここで気になるのがカリーニングラードです。実はここはロシア本国から地理的に切り離された「飛び地」であるカリーニングラード州をめぐる、地政学・安全保障上の問題となっています(カリーニングラード問題)。元々はドイツ領(東プロイセン)で、首都は「ケーニヒスベルク」でしたが、第二次世界大戦後(1945年)にソ連が獲得し、ドイツ人は追放され、ロシア人が移住したことで、「カリーニングラード」に改称しました。ロシア本土から行くには、空路もしくはNATO加盟国(リトアニア・ポーランド)を通過しなければならなく、有事の際に補給や移動が制限される(実際にウクライナ問題以降、NATO加盟国から輸送制限をされていてロシアが反発している)こと、ミサイル、防空システム、海軍基地を持つなど、バルト海全体に影響力を持つロシアの軍事基地ということで安全保障上の問題がある場所です。なお、ここに関しては、ドイツは完全に領有権を放棄しているので、領有権問題はありません。

 

■ウクライナ戦争で注目された理由

2022年にロシアがウクライナへ侵攻すると、バルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)は、NATO加盟国の中でも特に強硬にウクライナ支援を訴える国々となりました。その背景には、「ウクライナの次は自分たちかもしれない」という強い危機感がありました。バルト三国は、単にロシアと近いだけではなく、1940年にソ連に併合され、ソ連崩壊の1991年まで約50年間にわたって支配された経験を持っていますので、多くの国民にとってロシアは単なる隣国ではなく、「かつて自国を奪った国」という記憶を持つ存在なのです。

 

さらに、ロシアによるクリミア併合やウクライナ東部への介入で使われた論理が、バルト三国にも当てはまる可能性があることが不安視されていたためです。ロシアは2014年のクリミア併合の際、「ロシア系住民を保護する必要がある」と主張しました。また、ウクライナ東部のドネツク州やルハンシク州でも、ロシア語話者の存在が介入の理由として利用されましたが、実はバルト三国にもロシア系住民が少なくありません。特にエストニア東部のナルヴァ市では住民の大半がロシア語話者であり、ラトビアでも首都リガを中心に大きなロシア系コミュニティが存在しています。ソ連時代、多くのロシア人が工業労働者や行政官として移住してきた歴史があるためです。

 

もちろん、現在のバルト三国はNATO加盟国であり、もしロシアがバルト三国へ軍事侵攻すればNATO条約第5条によってアメリカやドイツ、フランスなども参戦する可能性があることは、ウクライナとは決定的に違うので、実際にロシアがウクライナと同じ方法を取る可能性は低いと考えられています。

 

しかし、だからといって安心できるわけではありません。近年は軍事侵攻だけでなく、サイバー攻撃、SNSを利用した世論工作、選挙介入、偽情報の拡散など「ハイブリッド戦争」と呼ばれる手法が注目されていて、実際にエストニアは2007年、大規模なサイバー攻撃を受け、政府機関や銀行のシステムが一時的に機能停止しました。この事件は、国家規模のサイバー攻撃として世界で初めて大きく注目された事例の一つとされました。そのためバルト三国は現在、軍事力の強化だけでなく、サイバー防衛や情報戦への対策にも力を入れています。彼らにとってウクライナ戦争は遠い国の出来事ではなく、むしろ「もしNATOに加盟していなかったら、自分たちがウクライナの立場になっていたかもしれない」という現実を突きつける出来事だったのです。

 

逆に、NATOから見るとバルト三国は「絶対に守らなければならないエリア」です。もしロシアがバルト三国へ軍事行動を起こした場合、それはNATO加盟国への攻撃となり、NATO全体の問題になります。つまり、ここで抑止に失敗すると、NATOそのものの信頼性が揺らいでしまうのです。そのため現在、NATOはエストニア、ラトビア、リトアニアに多国籍部隊を常駐させ、さらに有事には増援部隊を迅速に展開できる体制を整えています。

 

■それでも豊かになったバルト三国

しかし、バルト三国は単なる「ロシアとの最前線(危険地帯)」ではありません。1991年にソ連から独立した当時、3か国はいずれも旧ソ連型の計画経済から市場経済への転換という大きな課題を抱えていました。しかし、その後は急速な改革を進め、西ヨーロッパとの経済統合を積極的に進めていきます。2004年には3か国揃ってEUとNATOに加盟したことで西側諸国(ヨーロッパ)からの投資が流入し、経済は大きく成長しました。

 

中でもエストニアは「電子国家(e-Estonia)」として世界的に有名です。行政サービスのほぼすべてをオンライン化し、選挙投票や納税、会社設立までもインターネット上で完結できます。実際、Skypeを生み出した国としても知られ、人口わずか130万人ほどの国でありながら、IT先進国として高い評価を受けています。また、ラトビアやリトアニアも物流・金融・製造業などで成長を続けており、一人当たりGDPは旧ソ連諸国の中でも高い水準にあります。つまりバルト三国は、「ソ連支配から脱却し、西側経済圏への統合に成功した国々」の代表例とも言えるのです。

 

■1991年のソ連崩壊・独立以降の約30年間

2004年にEUに加盟したことで、確かに経済的には成功することができました。ただ、他の問題も出てきていたのです。それが、人口減少です。ソ連崩壊以後、エストニアは約156万人⇒約137万人(約19万人減)、ラトビアは約267万人⇒約190万人(約77万人減)、リトアニアは約370万人⇒約290万人(約80万人減)くらいまで減っています。

 

2004年のEU加盟までの人口減少の要因としては、ソ連崩壊直後に計画経済が崩壊し、失業者が増加したことで生活水準が低下したことと、ソ連時代に移住してきていたロシア系住民の一部がロシアへ戻ったことです。

 

2004年のEU加盟以降は、ドイツ、イギリス、アイルランド、北欧諸国などに自由に働きに行けるようになったことが最大の要因です。例えばリトアニア人の若者が、「母国で月1,000ユーロ」より「イギリスで月3,000ユーロ」を選ぶのは自然な流れでした。そのため、高学歴の若者は西欧へ移住しそのまま定住する、というケースが大量に発生しました。特にリトアニアはこの影響が非常に大きく、一時は「EU最大級の人口流出国」とまで言われました。つまり、EU加盟により経済は成功したが、同時に若者が流出し、人口が減るという皮肉な結果を招いた国でもあります。

 

なお、こういった移民がイギリスに多数流れ込んだことがイギリスのブレクジット(EU離脱)の要因にもなりましたので、その記事はこちらへ。

⇒記事挿入

 

また、ドイツに流れ込んだことで、ドイツも今移民問題に揺れていますので、そちらに関しての記事はこちらをどうぞ。

kuma0112.hatenablog.com

 

■その後、EUへのフィンランド・スウェーデンの加盟で変わったこと

2023年、フィンランドがNATOに加盟しました。これによって、ロシアとNATOの国境は約1300kmも増加しました。一方でNATO側から見ると、バルト海周辺の防衛体制は大幅に強化されました。さらに2024年にはスウェーデンも加盟しました。フィンランドとスウェーデンは冷戦時代から長く軍事的中立を維持してきましたが、ウクライナ戦争によって安全保障環境が変化し、NATO加盟へと方針転換したのです。結果として、バルト海はほぼNATOの海に近い状況になったことは、ロシアにとって大きな地政学的変化です。

 

また、以前はスヴァウキ回廊がバルト三国へのほぼ唯一の補給ルートと考えられていましたが、フィンランドとスウェーデンの加盟によって、NATOは(陸路ではありませんが)バルト海全体を活用した防衛計画を立てやすくなったということはあります。

 

ロシアが海を欲しがる理由、そしてNATOに関しても深掘ってみると面白いので、ぜひこちらの記事も呼んでみてください。

kuma0112.hatenablog.com

 

バルト三国は人口わずか600万人ほどの小国ですが、地図の上では世界の安全保障を左右する重要な場所にあります。ニュースでバルト三国やスヴァウキ回廊という言葉を見かけたら、ぜひ地図を開いてみてください。きっと、世界情勢の見え方が少し変わると思います。

 

では、本日はこのへんで。

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新疆ウイグル・チベット問題の背景とは?【中国の5つの自治区をわかりやすく解説】

みなさんこんにちは、メキシカンダンディパパです。中国の新疆ウイグル自治区については、深刻な人権侵害や大規模な監視体制が存在するとして、国際社会で大きな議論となっています。

 

本日は、その「自治区」ってそもそも何?みたいなところも含めて整理すべく、中国にある5つの自治区についてまとめていければと思います。実際、「自治区」という言葉を聞くと、まるでその民族が自由に自分たちのルールで暮らしているような印象を受けるかと思いますが、実際には、自治区ごとに状況は大きく異なり、国際社会でも様々な評価や議論が存在しています。

 

なお、このブログでは「中国人」や「中国そのもの」を批判したいわけではありません。また、このテーマは中国政府、亡命団体、研究者、各国政府などによって見解が大きく分かれる分野でもあるので、本記事では、できるだけ様々な立場の主張を踏まえながら、「自治区とは何か」をわかりやすく整理することを目的としていることを、ご理解ください。

 

■自治区とは何なのか?

中国には「①省(広東省、四川省など)」「②直轄市(北京、上海など)」「③自治区」があります。自治区とは本来、「少数民族が多く住む地域に対し、一定の自治権を認める制度」です。

 

法律上は、「独自言語の使用、独自文化の保護、一部行政権」が認められています。しかし実際には、中国共産党が全ての重要ポストを握っており、自治区のトップも共産党の管理下にあります。つまり名前は「自治区」でも、欧米でイメージされるような自治政府とは大きく異なるのです。

 

また、中国には55の少数民族が存在しますが、なぜ自治区は5つしかないのでしょうか。それは、人口が多く、面積が広く、歴史的に独立色が強かった地域だからです。つまり自治区とは、少数民族への配慮という側面がある一方で、歴史的に独立運動や民族問題を抱えてきた地域を、中国政府が統治する仕組みとしての役割もあると指摘されています。

 

 

さて、5つを足すと中国の面積の約半分(45%以上)を占めるこれら自治区のエリアですが、歴史を紐解けば、もともとは清朝時代の征服地であったり、独自の王国があった場所です。

5つの自治区の特徴

■そもそも、なぜ「自治区」は存在するのか?

中国は建国初期、少数民族地域に対して民族自治制度を導入しました。しかし現在では、自治の実態をめぐって国内外で様々な議論が存在しています。

地図で見る5つの自治区

①新疆ウイグル自治区:監視体制を巡り国際的な注目を集める地域

ウイグル族・人口2,580万人・面積日本の約4.4倍。石油/ガスの宝庫。今、世界が最も注視しているのが新疆ウイグル自治区です。「一帯一路」の西の玄関口と言えるこの場所は、世界でも類を見ない規模の監視体制が構築されていると指摘されています。街中のカメラが顔認証を行い、住民の歩き方やスマホの利用状況までAIが解析。お祈りをしたことや海外とのつながりなどが監視対象になったとの証言もあり、一部では拘束につながったケースが報告されています。また、100万人以上が送り込まれたとされる再教育施設があり、そこではウイグル語を禁じられ、毎日「共産党への感謝」を唱えさせられるなど、強い思想教育が行われているとの証言も報告されています。さらには、ウイグル族の出生率を意図的に下げるため、女性への強制的な避妊手術や中絶が行われているというデータもあり、米国政府などはこれを「ジェノサイド(集団殺害)」と認定しています(しかし中国政府はこれを否定しています)。新彊ウイグルは、世界の綿花の約20%を生産していますが、その収穫や加工、同じく太陽光パネルの主要原料であるポリシリコンやスマホの部品なども、自治区内での強制労働との関連が国際的に問題視されています(ここも、中国政府は否定しています)。

 

(独立の歴史)

この地には、かつて独立国家を作ろうとした明確な動きが二度ありました。①1933年、第一次東トルキスタン共和国。清朝崩壊後の混乱期、カシュガルを中心に建国を宣言しましたが、ソ連の支援を受けた軍閥によってわずか数ヶ月で崩壊しました。②1944年、第二次東トルキスタン共和国。現在のイリ地方を中心に、ソ連の強力なバックアップで建国され、独自の通貨や軍隊も持っていましたが、1949年、中国共産党との交渉に向かっていた首脳陣が「謎の飛行機事故」で全員死亡。指導者を失った共和国は、そのまま人民解放軍に飲み込まれました。中国政府はこれらの独立運動などの出来事を「分離主義」や「テロリズム」として位置付けており、東トルキスタン共和国の独立の歴史は中国国内ではほとんど語られていません。

 

②西蔵(チベット)自治区:宗教と文化をめぐる議論が続く地域

チベット族・人口約360万人・面積は日本の約3.3倍。「アジアの水源地」とも呼ばれ、チベット仏教の中心地として知られています。新疆ウイグル自治区と並び、中国の少数民族政策が国際的な議論の対象となっている地域の一つです。自治区内には「便民警務站(ビエンミン・ジンウージャン)」と呼ばれる小規模な警察施設が各地に設置され、住民管理や治安維持が強化されているとされています。また近年は、寄宿制学校の拡大が進んでおり、多くの子どもたちが家庭を離れて教育を受けています。中国政府は教育機会の向上や貧困対策の一環と説明していますが、一方で国際人権団体や亡命チベット人団体からは、チベット語や伝統文化の継承が弱まることへの懸念も示されています。さらに、中国政府とダライ・ラマ14世を中心とする亡命チベット人社会との対立も続いています。特に、将来のダライ・ラマ後継者の認定を誰が行うのかについては、中国政府と亡命チベット人側の立場が大きく異なっています。また、インドとの国境地帯ではインフラ整備や新たな村(模範村)の建設が進められており、中国政府は地域振興や国境管理の強化を目的としていると説明していますが、一部の研究者や人権団体からは、民族構成や伝統的な生活様式への影響を懸念する声も上がっています。外国人記者や研究者の立ち入りには依然として厳しい制限があり、外部から実情を把握することが容易ではない地域の一つとなっています。

 

(独立の歴史)

チベットの歴史をめぐっては、中国政府と亡命チベット人社会の間で大きく見解が分かれています。1912年に清朝が崩壊した後、ダライ・ラマ13世はチベットの独自性を強く打ち出し、独自の通貨や切手を発行するなど、事実上の自治・統治を行いました。この時期については、「実質的に独立国家だった」と見る研究者もいれば、「国際的に正式承認された主権国家ではなかった」とする見方もあります。1950年、中国人民解放軍がチベットへ進駐し、翌1951年に「17か条協定」が締結されました。中国政府はこれを「平和解放」と位置付けていますが、亡命チベット人社会は「軍事的圧力の下で結ばれた協定だった」と主張しています。1959年には中国統治への不満を背景に大規模な蜂起(チベット動乱)が発生し、鎮圧後、ダライ・ラマ14世*はインドへ亡命しました。現在も北インドのダラムサラには、亡命チベット人による行政組織が置かれています。

チベットとダラムサラの位置関係

*ダライ・ラマ14世:1954年、当時19歳だったダライ・ラマ14世は北京で毛沢東や周恩来と会談し、中国の国会にあたる全国人民代表大会の常務委員会副委員長も務めていました。当初は、中国政府との協力によってチベットの伝統と新しい体制が共存できる可能性を模索していたとも言われています。しかし、その後、中国政府による改革や統治方針をめぐる対立が深まり、1959年(当時24歳)にはチベットで大規模な騒乱(チベット動乱)が発生しました。この混乱の中で、ダライ・ラマ14世はポタラ宮殿を離れ、ヒマラヤ山脈を越えてインドへ亡命しました。それ以来、一度もチベットへ戻っていません。チベット仏教では、ダライ・ラマは転生によって継承されると考えられています。一方、中国政府はダライ・ラマの後継者認定について国家として関与する立場を示していますので、将来の後継者選定をめぐっては、中国政府とチベット亡命社会との間で見解の違いが存在しています。ダライ・ラマ14世は1989年にノーベル平和賞を受賞し、一貫して非暴力による対話を重視する姿勢を示してきました。2026年現在、90歳を超えており、その後継問題はチベット仏教だけでなく国際社会からも注目されています。

ダライ・ラマ14世

③内モンゴル自治区:変化するモンゴル語教育と広大な資源

モンゴル族・人口約2,400万人・面積は日本の約3.1倍。レアアースや石炭の産地として知られ、畜産業と資源開発の重要拠点でもあります。近年、この地域では民族文化や言語教育をめぐる議論が活発になっています。2020年以降、一部科目でモンゴル語から標準中国語(普通話)への移行が進められたことで、モンゴル語教育の縮小を懸念する声が国内外から上がりました。これに対して抗議活動も発生し、一部では中国政府による取り締まりが行われたと報じられています。また、中国最大級のレアアース産地であり石炭資源も豊富なことから、資源開発が進められていますが、草原地帯における環境保護政策や定住化政策(遊牧民が家畜を連れて移動しながら暮らすことを辞めて、同じ場所に住むようにする政策)については、伝統的な遊牧文化が失われることを懸念する声もあります。さらに、独立国であるモンゴル国と民族的・文化的なつながりを持つ地域でもありますが、中国政府は国家統合を重視する立場から、共通の国民意識の形成を進めています。その結果、モンゴル語や伝統文化の維持が課題になっているとの指摘もあります。

 

(独立の歴史)

モンゴル民族の歴史を語る上で欠かせないのが、現在の「モンゴル国(外モンゴル)」と「内モンゴル自治区」が別々の政治体制の下に置かれることになった経緯です。1930年代には、日本の支援を受けた徳王(デムチュクドンロブ)を中心に自治・独立を目指す動きがありましたが、日本の敗戦によって後ろ盾をなくし、その構想は実現しませんでした。第二次世界大戦後には、一部でモンゴル国(外モンゴル)との統合や独自の政治体制を求める動きも見られました。しかし、最終的には中国共産党との協調路線が選択されることになります。そして1947年、内モンゴル自治区が設置され、中国共産党政権下における最初の民族自治区となりました。

 

④寧夏回族(ねいかかいぞく/ニンシヤホイ)自治区:「宗教の中国化」が進む地域

回族・人口約720万人・面積は四国と九州の中間程度。回族は主にイスラム教を信仰する民族であり、中国政府が進める「宗教の中国化」政策の影響を受けている地域の一つとされています。外見や言語は漢族と近い人々も多い一方で、近年はイスラム建築に見られるドームやミナレット(塔)の撤去・改修が中国共産党によって進められており、中国的な建築様式へ変更された例も報告されています。また、公共空間でのアラビア語表記の縮小や、ハラール認証制度の見直しなども行われています。中国政府はこれらの政策について、「宗教活動を法に基づいて管理し、中国社会への適応を促進するため」と説明しています。一方で、宗教的・文化的な独自性が失われつつあるとの懸念を示す研究者や人権団体も存在します。新疆やチベットほど国際的な注目を集めることは少ない地域ですが、宗教活動や宗教施設に対する管理強化が進んでいる地域の一つとして取り上げられることがあります。

 

(独立の歴史)

ここは独立国家を目指したというよりも、イスラム教徒コミュニティによる自治や自立の動きが見られた地域です。19世紀には、清朝統治下において回族(イスラム教徒)による大規模な反乱が各地で発生しました。これらは総称して「回民蜂起」と呼ばれ、一部地域では独自の政権や自治的な統治体制が成立した時期もありましたが、最終的には清朝によって鎮圧されました。また20世紀前半には、「馬家軍(ばけぐん)」あるいは「西北馬家(せいほくばけ)」と呼ばれる回族系軍閥が現在の寧夏や青海、甘粛周辺で大きな影響力を持ちました。彼らは中央政府との関係を保ちながらも高い自治性を維持し、地域の政治や軍事を実質的に主導していました。その後、1949年の中華人民共和国成立に伴い、この地域も新たな国家体制の中へ組み込まれ、1958年に寧夏回族自治区が設立されました。

 

⑤広西(クワンシー)チワン族自治区:文化継承をめぐる課題が指摘される地域

チワン族・人口約5,000万人・面積は本州とほぼ同じ。中国最大の少数民族であり、ベトナムと国境を接することから、東南アジア(ASEAN)との交流拠点としても重要な地域です。5つの自治区の中では比較的安定しているとされ、大規模な民族対立や独立運動が国際的に注目されることはあまりありません。しかしその一方で、近代化や都市化の進展に伴い、若い世代の間ではチワン語を日常的に使う機会が減少しているとも言われています。また、伝統文化の一部は観光資源として活用されており、民族衣装や歌・踊りなどが地域振興に利用されていまして、実質的なチワン民族の独自性は失われつつあるとも言われています。中国政府は少数民族地域の経済発展を重視しており、確かに広西自治区もその恩恵を受けて発展してきましたが(見えない同化、と言われることも)、その過程で伝統文化や言語の維持をどう図るべきかについては、現在も議論が続いています。

 

(独立の歴史)

他の地域ほど現代的な独立運動は目立ちませんが、この地域は非常に古い歴史を持っています。秦の崩壊後には、現在の広西や広東、北ベトナム一帯を含む地域で南越国(なんえつこく)が成立し、独自の政治勢力として存在していました。近代では、19世紀の太平天国の乱がこの地域を出発点として広がったことでも知られています。その後、中国共産党政権の成立以降は、少数民族政策の下で自治区として位置付けられ、経済開発やインフラ整備が進められてきました。

 

■なぜ中国は自治区の「独立」を許さないのか?
中国政府が自治区の独立や分離独立運動に強く反対する背景には、大きく「資源」「国防」「国家統合」の3つの要素があると考えられています。新疆ウイグル自治区には石油や天然ガス、内モンゴル自治区にはハイテク産業の心臓部であるレアアースなどの重要資源が存在しており、中国経済にとって重要な地域です。また、新疆ウイグルやチベットは中央アジアやインドと接する国境地帯であり、中国政府は安全保障上の観点からも重視しています。中国政府は、もしこれらの地域が独立した場合、他国の影響力が及ぶ可能性を警戒していると考えられていまして、中国の国境管理や安全保障政策に大きな影響を与えています。さらに、中国共産党は国家の統一と社会の安定を重視する立場を取っており、民族・宗教・地域ごとの独自性よりも、国家としての一体性を優先する傾向があります。そのため、少数民族地域においても標準中国語教育や共通の国家意識の形成が進められています。こうした政策については、「国家統合のために必要」と評価する意見がある一方で、「少数民族の文化や宗教への圧力になっている」と批判する声もあり、国際的な議論が続いています。

 

■言語と文化の継承をめぐる議論
少数民族政策を巡る議論の中で、特に注目されているのが言語や文化の継承の問題(教育を通じた文化の破壊)です。近年、中国では標準中国語(普通話)の普及が進められていまして、一部の少数民族地域では従来の民族言語による教育が縮小されているとの指摘があります。支持する立場からは、就職機会の拡大、教育格差の解消、国家統合の促進などのメリットが挙げられる一方、批判的な立場からは、民族言語の衰退、伝統文化の喪失、アイデンティティの希薄化につながる可能性があると懸念されています。こうした問題は中国に限らず、世界各地の少数民族政策でも「文化的同化政策」として議論されているテーマです。

 

「自治区」という言葉から受ける印象と、実際に国際社会で議論されている現状には、大きなギャップがあるのかもしれません。「自治区」という言葉一つを取っても、その背景には非常に複雑な歴史や政治、民族問題が存在するということです。もちろん立場によって見え方は大きく異なります。しかし、まずは何が起きているのかを知り、自分なりの意見を持つことは決して無駄ではないと思います。ニュースで新疆ウイグル自治区やチベット自治区の話題を見かけた際には、その背後にある歴史にも少し思いを巡らせてみてください。

 

本記事の内容についても、立場や情報源によって解釈が異なる部分があるかと思います。ぜひ様々な資料や意見にも触れながら、ご自身でも考えてみていただければと思います。

 

では、本日はこのへんで。

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なぜメキシコは再選を禁止するのか?【政治と歴史から読み解く“独裁への恐怖”の正体】

みなさんこんにちは、メキシカンダンディパパです。メキシコの政治や歴史は、ビジネスや生活に大きな影響を与えます。今回は、メキシコの大統領制度(任期6年・再選禁止)や主要政党、PEMEXを中心とした資源ナショナリズムについて、わかりやすく解説します。メキシコの政治を理解するカギは、実は「独裁への恐怖」と「資源は国民のもの」という強いプライドにあるんです。

 

それでは、どうぞ。

 

■「一生に一度」の大統領任期と、独裁者ディアスの影

メキシコの大統領は「任期6年、再選は憲法で一切禁止(一期のみ)」という非常に厳しいルールがあります。この6年間の任期はスペイン語で「セクセニオ(Sexenio)」と呼ばれ、政治や経済の大きな区切りとなります。なお、メキシコでは大統領が変わると、前政権のプロジェクトが白紙撤回されることが珍しくありません。これは独裁を防ぐための”リセット”ですが、同時に長期的な国家戦略を立てにくいという副作用も生んでいます。ビジネスの世界でも、6年ごとの政権交代期には「様子見」の空気が流れるのがメキシコの定石となっています。

 

★メキシコ革命(1910年~1920年)

メキシコが「再選」を極端に嫌う理由は、ポルフィリオ・ディアスという人物にあります。彼は、1876年からの約30年間、「秩序と進歩」を掲げて政権を握り続けました。鉄道の敷設や経済成長など、メキシコの近代化を大きく進めた「光」の側面もありますが、長すぎる支配は、深刻な格差と汚職を生みました。土地は一部の特権階級に独占され、国民の多くは貧困に喘ぎました。最後は選挙不正を強行して再選を狙ったことが引き金となり、メキシコ革命が勃発しました。この革命のスローガンが、マデロが掲げた「有効な投票、再選反対(Sufragio efectivo, no reelección)」であり、他にも、南部の農地解放を訴えたサパタ、北部の猛将パンチョ・ビジャなど、個性の強いリーダーが割拠し、1917年憲法で大統領の再選は永久に禁止されました。

 

他国では再選のために憲法を変える例もありますが、メキシコでは革命の血で得た「再選禁止」は聖域に近いもので、現政権のシェインバウム大統領も、彼女はむしろ「(地方首長などの)連続再選も禁止する」方向の改革を提案しているくらいで、権力の集中を防ぐ姿勢を見せていますので、現時点では、大統領自身が再選を狙うような憲法改正をする、ということは考えづらい状況です。

 

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【他国で、本来の任期や選出回数の制限を延長・撤廃したリーダー】

1. 中国:習近平(国家主席)
最も大きなニュースの一つです。

内容: 2018年の憲法改正により、それまで「2期10年まで」とされていた国家主席の任期制限を完全に撤廃しました。

現状:これにより、事実上の「終身トップ」が可能となり、現在3期目に入っています。

 

2. ロシア:ウラジーミル・プーチン(大統領)
「任期の魔術師」とも呼ばれるほど、巧妙にルールを変えてきました。

内容: 2020年の憲法改正で、これまでの任期を「リセット(白紙化)」する条項を追加しました。

現状: これにより、理論上は2036年(彼が83歳になる年)まで大統領職にとどまることが可能になっています。

 

3. エルサルバドル:ナイブ・ブケレ(大統領)
メキシコの隣、中米で今最も注目されている人物です。

内容: 憲法では「連続再選」が禁止されていましたが、親政権派の最高裁が「任期終了前に一時的に職を離れれば再選出馬は可能」という驚きの解釈を下しました。

現状: 2024年2月の選挙で圧倒的な支持を得て再選。治安劇的改善の一方で、強権的との批判もあります。

 

4. トルコ:レジェップ・タイップ・エルドアン(大統領)
内容: 2017年の憲法改正で、議院内閣制から大統領制へ移行し、権限を大幅に強化。さらに任期のカウントをリセットしました。

現状: 2023年の選挙で勝利し、長期政権を継続しています。

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■ 現在の主役:AMLO(アムロ)とシェインバウム、そして「Morena(モレナ)政党」

今、メキシコで圧倒的な力を誇っているのが、左派政党のMorena(国家再生運動)です。2018年に就任したAMLO(ロペス・オブラドール前大統領の頭文字を取っての略称)は、メキシコ史上3つの大きな転換点(独立、自由主義改革、革命)に続く「第4次変革(4T)」を掲げました。特徴としては「新自由主義(ネオリベラリズム)」との決別。汚職の撲滅、富裕層への課税強化、そして貧困層への手厚いバラ撒き(年金や奨学金)が国民の心を掴みました。

 

シェインバウム大統領は、科学者にして初の女性リーダーとして、2024年に就任しました。彼女は、AMLOの最側近であり、環境科学者としての顔も持ちます。政策として、基本的にはAMLOの「4T」を継承しますが、彼女ならではのカラーもあります。例えば、再生可能エネルギーへの投資や、ジェンダー平等の推進などです。ただ、司法制度改革を巡る対立や、トランプ政権(2025年〜)による関税の脅威など、内憂外患(内側の心配事と外側からの災いが同時に起きている状況)の厳しい船出となっています。

 

■メキシコを支える主要政党を整理

かつての「1党独裁」から「多党制」へ、そして現在の「Morena1強」へと移り変わったメキシコの主要政党を整理しましょう。

 

①Morena(国家再生運動)/赤(えんじ)

中道左派〜左派で、AMLOが2014年に設立しました。「貧者を第一に(Primero los pobres)」というスローガンのもと、現金給付を伴う手厚い社会福祉政策を展開し、これまで政治から見捨てられてきたと感じていた層に「尊厳」を与えたことで、貧困層や労働者層の絶大な支持を受け、現在の大統領・議会を支配しています。

 

②PAN(国民行動党)/青

右派・保守で、かつてのPRIによる世俗主義・中央集権的な支配に対するカウンターとして生まれた、「カトリック的倫理」と「自由主義経済」の守護者で、伝統的にビジネス層や教会、中産階級に強く、自由経済と小さな政府を支持している現在の最大野党です。ただ、現在は2000年にPRIの長期支配を終わらせたときのような勢いはなく、”一部の富裕層だけの政党”というレッテル貼りに苦しんでいます。

 

③PRI(制度的革命党)/

中道で、かつて「完璧な独裁(ラ・ディクタドゥーラ・ペルフェクタ)」と呼ばれ、70年以上も政権を維持した老舗政党です。そう言われたのは、弾圧ではなく「利権の分配」によって国を掌握したからですが、現在は地方での影響力も低下傾向にあります。なお、今のMorenaの強さは、かつてのPRIが持っていた「地方の津々浦々まで利権を届けるネットワーク」を、より現代的でクリーンなイメージに書き換えて奪い取った結果とも言えます。

 

④MC(市民運動党)/オレンジ
中道左派で、今ではPRIを抜いて、第3の勢力と言えます。「右も左も古い!」という既存の政党に飽きた人達や若い層、都市部に人気のある、今勢いがある政党です。古い政治から脱しようとしていて、「社会民主主義」を掲げ、人権や多様性、環境問題を重視するのが特徴です。また、SNSを駆使した戦術が天才的に上手く、ヌエボレオン州やハリスコ州といった、経済的に超重要な州で知事を出しています。現在のメキシコ第二の都市はヌエボレオン州モンテレイ、第三の都市はハリスコ州グアダラハラですので、そういった大きな都市をしっかりと押さえています。

 

メキシコの政党

 

■州ごとの支持傾向:北は「青(PAN)」南は「赤(Morena)」
メキシコには伝統的に「北高南低」ならぬ、「北は保守(右派)、南は革新(左派)」という明確な色分けがありました。

 

★北部(チワワ州、ヌエボ・レオン州など)は、米国との経済的な結びつきが強く、富裕層や中産階級、実業家が多いエリアで自由な商売を好むため、右派のPANが伝統的に強い傾向があります。

 

★南部(オアハカ州、チアパス州など)

農村地帯が多く、貧困問題が深刻なエリア。伝統的に政府の支援を求める声が強いため、左派(Morenaや、かつてのPRD)の牙城でした。

 

ただ、今、起きている変化として、ここ数年はこの「北はPAN」という常識が、Morenaによって塗り替えられています。かつてPANやPRIの独壇場だった北部(バハ・カリフォルニア州やソノラ州など)でも、Morenaが知事選で勝利を収めているなど、Morenaの全国制覇が近い状況です。

 

また、首都メキシコシティ(CDMX)は、長年左派Morenaが強いエリアでしたが、最近は区によって「西側の富裕層はPAN(右派)、東側の労働者層はMorena(左派)」といった具合に、都市内部でさらに細かく分かれています。

 

Morenaの強さは、単なる政策ではなく、AMLOという個人の「カリスマ性」に依存している部分もありました。AMLOの支持は、もはや政治支持を超えて『信仰』に近いものもあり、彼は毎朝、早朝記者会見(マニャネーラ)を開き、国民に直接語りかけ続けていました。エリート層を「フィフィス(金持ちの鼻持ちならない奴ら)」と呼び、庶民との対立構造を作ることで、「俺たちの代表だ」という強烈な帰属意識を植え付けたのです。同じMorenaでAMLOの流れを継いでいるとは言え、シェインバウム大統領にとっては、この「AMLOという魔法」が解けた後の着地をどうコントロールするかにあるとも言えます。

 

■国営石油会社「PEMEX」と資源ナショナリズムの絆

また、メキシコを語る上で外せないのが、国営石油会社PEMEX(ペメックス)です。1930年代、メキシコの石油は外国企業(米国・英国等)に牛耳られていました。労働条件の悪化を巡る争いが最高潮に達した1938年、当時のカルデナス大統領が「石油はメキシコ人のものだ!」と宣言し、外国資本の資産を強制的に国有化しました。PEMEXは単なる石油会社ではなく、国家の「財布」であり「誇り」です。収益は教育やインフラの原資となってきたため、政治家にとってPEMEXをどう扱うかは、国民の支持を左右する最大級のテーマなのです。

 

他には、電力供給を一手に担うCFE(連邦電力委員会)も巨大な国営企業です。また最近では、現政権下でMexicana de Aviación(航空)が国営として復活したり、リチウム資源の国有化が進んだりと、再び国家主導の動きが強まっています。

 

■メキシコにおける国有化や国家による独占の歴史

少し触れましたが、CFE(連邦電気委員会)とMexicana de Aviación(メキシカーナ航空)、そして最近国有化されたばかりのLitio para México(LitioMX)は、メキシコ現代史における「国家主権の維持」と「経済の自由化」の対立を象徴する重要なトピックなので、少しまとめます。

 

①CFE(連邦電気委員会)の国有化と独占
電力部門の国有化は、メキシコにおける資源ナショナリズムの根幹をなす歴史です。

1937年 CFE設立:当時、外国資本の私営企業が中心だった電力インフラを、メキシコ国内の発展のために国家主導で整備することを目的に設立されました。

1960年 電力国有化:アドルフォ・ロペス・マテオス大統領が、主要な私営電力会社を買収し、憲法を改正して「電力供給は国家の排他的な責務」と定めました。これにより、CFEによる独占体制が確立されました。

2013年 エネルギー改革(自由化):ペニャ・ニエト政権下で、外資導入と市場競争を促進するために市場が開放されました。これによりCFEは一企業として民間と競争する立場となりました。

2018年以降 AMLO政権による「再国有化」的な動き:AMLO前政権は、CFEを優遇し、民間(特に再生可能エネルギー分野の外資)の参入を制限する政策を強行しました。完全な国有化ではないものの、「国家によるエネルギー主権の奪還」を掲げ、事実上の独占回帰を目指しました。

 

②Mexicana de Aviaciónの浮沈と「軍事運営」による復活
メキシカーナ航空の歴史は、民営化の失敗と、国家による異例の救済という特殊な経緯を辿っています。

1921年 創業:世界で4番目に古い歴史を持つ航空会社として誕生しました。

1980年代〜2000年代 民営化と経営悪化:政府所有だった時期を経て、2005年に民間に売却されましたが、負債とストライキ、新型インフルエンザの影響などで経営が急速に悪化しました。

2010年 破産・運行停止:事実上の倒産により、メキシコ空の象徴だった同社は運行を停止しました。

2023年 国家ブランドとしての復活:AMLO政権が、破産した旧メキシカーナ航空のブランド名と資産を政府が買い取りました。

2025年時点 軍による運営:最も特徴的なのは、この「新生メキシカーナ航空」が国防省(SEDENA)傘下の企業によって運営されている*点です。これは、インフラや公共サービスを軍に管理させるという現政権の戦略的な国有化の流れの一環です。

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*新生メキシカーナ航空が国防省(SEDENA/軍)によって運営されている?

以前は、軍の仕事は「治安維持」でしたが、AMLO政権以降、軍は「巨大な建設・運営コンサル企業」のようになっています。マヤ鉄道、メキシコシティ新空港(AIFA)、さらには税関の管理までを軍が行っています。「なぜ軍なのか?」という点ですが、「汚職まみれの民間や役人より、規律ある軍の方がマシで、しかも(大統領の)命令に絶対服従だから」というAMLO流のロジックでこうなっているのです。シェインバウムがこの「巨大化した軍の権限」をどう扱うのか、は今後気になるところです。。

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③Litio para México(LitioMX)の設立背景と役割、そして現状

メキシコ政府はリチウムを「戦略的資源」と位置づけ、その探索、採掘、加工、および価値連鎖全体の管理をこの企業に独占させています。2022年4月の鉱業法改正により、リチウムは「公共の利益」のための国家財産と定められました。そのタイミングで、リチウムに関する一切の権利(コンセッションや契約)が民間企業には与えられなくなり、LitioMxがこれらを独占的に担うことになりました。電気自動車(EV)用バッテリーに欠かせないリチウムを自国で確保し、将来のエネルギー転換を国家主導で進めることが狙いです。


主な役割の一つとしては資源探索・採掘で、メキシコ地質調査所(SGM)の協力を得て、埋蔵が期待されるエリア(主にソノラ州など)の特定と開発を行います。また、技術開発として、リチウム抽出に必要な技術の研究・開発を推進しています。基本的には独占ですが、技術や資金面で民間企業と合弁会社(JV)を設立する可能性も検討されています。そんな感じで、野心的な目標を掲げて設立されましたが、実態としては以下のような厳しい局面にあります。

 

┗予算の不足:2026年度予算では、そのほとんどが人件費などの経常経費(約1,390万ペソ=約1億2,000万円)に充てられ、新たな探査や設備投資への予算が事実上ゼロに近い状態となっています。

┗法的紛争:国有化前にリチウム開発の権利を持っていた民間企業(中国のガンフェン・リチウムなど)との間で国際的な仲裁裁判が続いており、これが投資や開発の不確実性を高めています。

┗商業生産の遅れ:メキシコのリチウムは粘土層に含まれているため抽出が難しく、現時点で商業ベースでの採掘は始まっていません。

 

メキシコは自動車産業が盛んなため、国内でリチウムが生産されればEVシフトが加速すると期待されていますが、現状は「国内産リチウムによるサプライチェーン構築」にはまだ時間がかかる見通しでありますし、当面は材料の輸入に頼る状況が続くと見られています(実際には、治安問題などもあり、電池充電している間に襲われる可能性もあるなど、メキシコでは思ったほどEV化も進んでいない)。

 

メキシコの国有化企業例

■メキシコ政治の今後の課題

シェインバウム大統領率いる新政権は、治安問題(麻薬カルテルとの戦い)、財政不安(PEMEXの巨額負債やバラ撒きと言われる社会保障費の捻出)、USMCA含めた対米関係(関税や移民問題への圧力)が、メキシコ経済の今後の課題点と言えるでしょう。

 

こうした背景を知った上でメキシコ企業と向き合うと、相手の「資源への誇り」や「変化への警戒心」などが見えてくるのかもしれません。

 

では、本日はこのへんで。

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ブレグジットとは何だったのか?【なぜイギリスはEUを離脱したのか。そして今、成功だったのか失敗だったのか】

みなさんこんにちは、メキシカンダンディパパです。前回のブログでは、イギリスの歴史についてまとめましたが、イギリスについて語る上で、最も大きな出来事の一つだった「ブレグジット(Brexit)」については外せませんので、今回はブレグジットについてまとめていきたいと思います。

 

ニュースで何となく聞いたことはあるけれど、「そもそもEUって何?」「なぜイギリスはEUから抜けたの?」「国民投票で本当に決まったの?」「今は成功しているの?後悔しているの?」「他の国も続いて離脱したの?」など、意外とよく分からない人も多いのではないでしょうか。

 

そこで今回は、EU誕生の背景から、ブレグジットの理由、現在の状況までを分かりやすく整理しようと思います。

 

ちなみに、ブレグジットの語源はこちら。

ブレグジット(Brexit)=イギリス(British)+出ていく・出口(Exit)

ブレグジットは成功だったのか

■そもそもEUとは何なのか

まず最初はイージーなところからですが、理解しておきたいのは「EUとは何なのか」です。EU(European Union:欧州連合)は、ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、オランダ、ベルギーなどを中心に、現在27か国が加盟する巨大な政治・経済共同体です。EUが生まれた最大の理由は、「もう二度とフランスとドイツが戦争できない仕組みを作ること」でした。

 

今でこそヨーロッパは平和なイメージがありますが、歴史を振り返ると戦争だらけで、特に第一次世界大戦(1914~1918)、第二次世界大戦(1939~1945)では数千万人規模の犠牲者が出ました。そこで1951年、「石炭や鉄鋼など戦争に必要な産業を共同管理しよう」という考え方のもと、European Coal and Steel Community(欧州石炭鉄鋼共同体:ECSC)が生まれたのがEUの原型です。加盟国は6か国で、フランス、西ドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクでした。当時、フランス、ドイツは何度も戦争していました。そこで、戦争に必要な石炭と鉄鋼を共同管理してしまえば戦争できないという発想が生まれました。これがECSC⇒EEC⇒EC⇒EUへ発展していきます。つまりEUは、「平和プロジェクト」として始まったのでした。

 

EUの最大の特徴は、加盟国同士でほとんど国境を感じない*ことです。例えば、ドイツ人がフランスで働く、スペイン人がオランダへ移住する、ポーランド人がイギリスで働く、こういったことが非常に簡単にできます。さらに、商品の関税もほぼありません。つまり、EUとは「27か国で一つの巨大経済圏を作る仕組み」なのです。

*加盟国同士でほとんど国境を感じない:覚えておきたいシェンゲン協定に関して。多くの人が勘違いしますが、「EU加盟=シェンゲン協定加盟」ではありません。シェンゲン協定とは、加盟国間の国境検査をなくす制度です。例えば、フランス、ドイツ、ベルギーの国境はほぼ存在しません。車でそのまま越えられます。ところが、イギリスはEU加盟国だった時代もシェンゲン協定には参加していませんでした。つまり、ロンドン→パリに行く時はEU時代からパスポート審査がありました。そのため、「ブレグジットしたから国境が復活した」というのは厳密には間違いです。元々イギリスは国境管理を維持していました。なお、一例としてアイルランドやキプロスは、EUではありますが、シェンゲン協定には加盟していないため、国境管理がある。

 

■実はイギリスは最初からEUに懐疑的だった

ここが重要なポイントなのですが、実はイギリスは昔から「ヨーロッパと少し距離を置きたい」という考え方を持っていました。理由は単純で、彼らは長い間、世界最大の海洋帝国だったからです。かつての大英帝国は、世界人口の約4分の1を支配していました。つまり、イギリス人の感覚としては「ヨーロッパの一国というより世界国家」だったのです。

 

EU加盟国の多くはユーロ(€)を使っていますが、イギリスは違い、現在も使われている通貨はポンド(£)です。つまり、イギリスは昔から「EUには入るけど完全には一体化しない」というスタンスを取っていたのです。そういった考え方を理解すると、EUから離脱したいというのもおかしな話ではありませんが、ではなぜ実際に離脱に至ったのでしょうか。理由は大きく分けると下記です。

 

①移民問題:

最も大きかったのはこれです。EUでは人の移動が自由です。特に2004年以降、東欧諸国がEUに加盟しました。すると、ポーランド、ルーマニア、ブルガリアなど経済的には少し貧しい東ヨーロッパから多くの労働者がイギリスへ流入しました。当時のイギリス政府は年間数万人程度の流入を想定していましたが、実際には想定を大きく上回る規模となり、2004年以降だけでも数百万人規模のEU出身者がイギリスに居住するようになりました。企業にとっては労働力不足の解消につながりましたが、一方で一部の国民は、「賃金が抑えられる、仕事の競争が激しくなる、学校や病院など公共サービスへの負担が増える」と感じるようになりました。実際には経済学者の間でも、移民が賃金を大きく下げたという証拠は限定的ですが「そう感じた人が多かった」ことが政治的には非常に重要でした。また2015年頃にはシリア難民危機も発生し、EU全体で移民・難民問題が大きく報道されていたことも、離脱支持の追い風になったと言われています。

 

②主権を取り戻したい:

イギリス人にとって非常に重要なのが「議会主権」という考え方です。イギリスでは歴史的に、「最終的な決定権はイギリス議会にある」という考え方が強く根付いています。しかしEUでは、「環境規制、労働規制、製品基準、漁業政策、農業政策」など、多くのルールがEUレベルで決定されます。そのため離脱派は、「法律を決めているのはロンドンではなくブリュッセル(EU本部)だ」「選挙で選んでいないEU官僚が国のルールを決めている」と主張しました。この時に使われた有名なスローガンが、「Take Back Control(主導権を取り戻せ)」でした。これは単なる政治スローガンではなく、「イギリスは本来、自分たちで国を運営する国だ」という歴史的な感覚にも結び付いていたのです。

 

③地方と都市の格差:

興味深いのは、ロンドンでは残留派が約60%を超えた一方で、地方では離脱支持が強かったことです。ロンドンは金融・IT・国際ビジネスの中心地であり、EU単一市場の恩恵を大きく受けていました。一方で、かつて製造業や炭鉱で栄えた北イングランドや中部地方では、1980年代以降の産業構造の変化によって雇用が減少していました。その結果、「ロンドンだけが豊かになっている」「政治家は地方を見ていない」という不満が強くなっていったのです。実際、ブレグジット国民投票は、EUへの賛否だけでなく、国内の地域格差への不満の表明でもあったと分析する研究者も少なくありません。なお、多くの研究者は、これらの地域の不満は必ずしもEUそのものに向けられたものではなく、長年の産業衰退や政府の緊縮財政政策による生活環境の悪化が背景にあったとも指摘しています。その意味では、ブレグジットはEUへの抗議というより、既存政治への抗議の側面も持っていました。

 

④EUへの不満が蓄積していた:

実はイギリスはEU加盟当初から、他の加盟国ほどEU統合に積極的ではありませんでした。「ユーロを導入しなかった、シェンゲン協定にも参加しなかった、EU予算への拠出金問題でも度々対立した」など、常に「少し距離を置く加盟国」だったのです。特にタブロイド紙(大衆紙)では何十年も前から、「EU官僚主義、EU規制、EU予算負担」を批判する報道が繰り返されていました。そのため2016年の国民投票は突然起きた出来事ではなく、「イギリス社会に長年蓄積していたEUへの不満が一気に噴き出した瞬間」とも言えるのです。

 

⑤イギリス人はそもそも「ヨーロッパ人」意識が弱かった:

フランスやドイツでは、「自分はフランス人でありヨーロッパ人でもある」という意識があります。一方イギリスは島国であり、「ナポレオン戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦」等を通じて、何度も大陸ヨーロッパと距離を置いてきました。そのため「EUは必要かもしれないが、自分たちはヨーロッパの一部というよりイギリス人だ」という感覚が他国より強かったとも言われています。この、大陸側の国々との感覚の違いも、ブレグジットを引き起こした理由の一つと言われています。

 

■2016年の国民投票

2016年6月23日。歴史的な国民投票が行われました。結果は、「離脱51.9%、残留48.1%」というわずか数%の差で、離脱することが決まりました。世界中の専門家や金融機関は、残留が勝つと予想していましたので、結果は逆でした。どうやら「どうせ残留が勝つだろう」と、残留を期待していた若者が高を括って投票にあまり行かなかったのも要因の一つになった可能性があると言われています。発表直後、世界の株式市場は大混乱となります。ポンドも急落しました。

 

実は面白いことがあります。一部の関係者の証言では、離脱派の政治家の中にも残留勝利を予想していた人が多くいたと言われています。そのため、勝利後に具体的な離脱プランが十分準備されておらず、その後の交渉は大混乱しました。実際に正式離脱したのは、投票から約4年後の2020年です。

*EU加盟国数:2013年にクロアチアが加盟し、EUは28か国体制になりました。その後、上記経緯を経て2020年にイギリスが離脱し、2026年現在は27か国となっています。

 

ちなみに「なぜ国民投票が実際に実施されたのか」ですが、裏には当時のデービッド・キャメロン首相の色々な思惑がありました。当時のキャメロン首相はEU残留派でした。しかし保守党内には強いEU懐疑派が存在し、さらにUKIP(イギリス独立党)が支持を伸ばしていました。そこでキャメロン首相は、「国民投票をしたらEU残留派が勝つだろうから、それで決着をつけよう」と考えます。しかし、結果は逆でした。そしてこの国民投票の結果を受けて、キャメロン首相自身が辞任することになります。つまり「本来やらなくてもよかった国民投票を、自ら仕掛けて自爆した」のです。

 

■実はブレグジットで最も揺れたのは「イギリスそのもの」

前回の記事でも書きましたが、イギリスは単一民族国家ではなく、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドという異なる歴史を持つ国々の連合体です。そのため、2016年の国民投票結果を地域別に見ると非常に興味深い結果になります。

 

イングランド:EU離脱支持
ウェールズ:EU離脱支持
スコットランド:EU残留支持
北アイルランド:EU残留支持

 

つまり、「イギリス全体では離脱」だったものの、4つの国の意見は一致していなかったのです。

 

☆スコットランド

特にスコットランドでは、2014年に独立の是非を問う住民投票が行われ、結果は「スコットランド独立反対:55%、スコットランド独立賛成:45%」となり、かなり接戦だったのです。さらに2016年のブレグジット国民投票では、スコットランドの約62%がEU残留を支持しました。

 

そのためスコットランド独立派は、「自分たちはEU残留を望んだのに、イングランドの票によってEU離脱させられた」という不満が強まった結果、スコットランド独立論が再び勢いを増し、「EUに残りたいなら独立した方がいいのでは」という議論が今も続いています。ただし独立した場合、「通貨をどうするか、財政をどうするか、EU再加盟できるのか」など課題も多く、実現するかは不透明です。

 

☆アイルランドと北アイルランド
また、ブレグジットで「北アイルランド問題」も再び注目されました。EU加盟中は、アイルランド共和国(EU加盟)と北アイルランド(イギリスの一部のためEU非加盟)の国境がほぼ見えなくなっていました。しかしイギリスがEUを離脱すると、国境管理をどうするのかという問題が発生します。もし厳しい国境管理を復活させれば、北アイルランド紛争当時の対立を刺激しかねませんので、イギリス政府もEUも、最終的には非常に複雑な妥協案を作ることになりました。

 

それが、「Northern Ireland Protocol(北アイルランド議定書)」です。


1998年のベルファスト合意の重要な成果の一つが「見えない国境」でした。かつては、検問所、軍の監視塔、有刺鉄線がありましたが、和平後は撤去されました。多くのナショナリスト(カトリック系住民)からすると、「アイルランド島は一つ」という感覚がありますが、もし国境施設が復活すると、彼らは「再びイギリスに支配されている」と感じかねません。そのため、EUもイギリスも「北アイルランドとアイルランド共和国の間には物理的な国境を作りたくない」で一致していました。ただ、国境を作らないとEU市場が守れないというEU側の事情もあるので、どこかで検査をしないとEU単一市場が崩壊してしまいます。そこで「北アイルランド議定書」を締結し、島の中には国境を作らず、イギリス本土から北アイルランドに入ってくるタイミングで検査をすることにしました。

 

ただ、今度は北アイルランドのプロテスタント系住民(ユニオニスト=イギリス残留派)が「北アイルランドだけがイギリス本土と違う扱いを受けている」と激怒しました。彼らからすると「俺たちはイギリス人なのに、なぜ本土との間で検査されるんだ」となったのです。それを受け、その後さらに妥協され、2023年に北アイルランド向けだけの商品は検査を簡略化し、EUへ流れる可能性のある商品は検査継続するという「ウィンザー枠組み」が合意され、完全解決ではありませんが、かなり緊張は緩和されたのです。

 

つまりブレグジットは単なるEU離脱ではなく、「スコットランド独立問題」「北アイルランド統一問題」を再び表面化させるきっかけにもなったのです。

※これらの歴史的背景については、前回のイギリス史の記事で詳しく解説していますので、ぜひそちらもご覧ください。

kuma0112.hatenablog.com

 

 

■ボリス・ジョンソンとは何者だったのか

ブレグジットを語る上で欠かせない人物がボリス・ジョンソンです。彼は元々ロンドン市長でしたが、2016年国民投票当時は国会議員であり、EU離脱国民投票で離脱派(Leave)の顔となりました。有名なのが、「EUに払っているお金をNHS(国民医療サービス)に回せる」という主張です。離脱派のキャンペーンバスに、「EUに毎週3億5000万ポンド(当時のレートで約500億円)払っている」と書かれていたのは有名です。ただし後に、「数字が誇張されていた」との批判も受けました。ボリス・ジョンソンの凄かったところは「EU離脱=主権回復」という非常に分かりやすいストーリーを作ったことです。経済の話ではなく、イギリスの法律はイギリスで決める、国境管理はイギリスで行う、移民はイギリスで管理する、という感情に訴えるメッセージを徹底しました。結果として2019年総選挙では歴史的大勝を収め、「Get Brexit Done(ブレグジットを終わらせよう)」を実現しました。

*EU離脱後の混乱の一つ「トラスショック」:ボリス・ジョンソン首相のあと、2022年にはリズ・トラスが首相になりました。彼女は、大規模減税・財政支出拡大を同時に実施しようとしました。ところが、市場は「財源どうするの?」と不安になり、その結果「英国国債が暴落⇒金利急騰⇒ポンド急落⇒年金基金危機」という大混乱が発生します。これが「トラスショック」です。トラス首相は、就任からわずか44日で辞任、イギリス史上最短の首相になりました。なお、これは直接ブレグジットのせいではありませんが、EU離脱後の経済成長戦略として「大胆な規制緩和・減税国家」を目指そうとした流れの中で起きたため、ブレグジット後の混乱を象徴する事件として語られることが多いです。

ブレグジット前後のイギリス首相の流れ

■ブレグジットで得られたもの

ではEUからの離脱によって実際にイギリスは何を得たのでしょうか。支持者は「移民政策を自国で決められる(EUの自由移動を受け入れなくて済む)」「法律を自国で決められる(これもEU規制に従う必要なし)」「国家主権の強まり」「独自の通商政策(EUを通さなくて良い)」ということを主張しています。

 

では、本当にブレグジットは成功だったのか。ここが一番気になるところだと思いますが、結論から言うと、2026年現時点では「経済面では期待ほど成功していない」という評価が主流です。多くの経済研究では、ブレグジットによって「貿易コスト増加・投資減少・労働力不足」が起きたと分析されています。特に中小企業は、EUとの輸出入手続きが大幅に複雑化しました。

 

また、実は皮肉なことに、EU移民は減ったものの、非EU移民は大幅に増えたので、結果として、移民総数は期待したほど減っていません。これは離脱派にとっても予想外でした。

 

一つ、離脱後の数少ない明確な成果の一つと言われているのが、TPP加盟です。正式名称は、「Comprehensive and Progressive Agreement for Trans-Pacific Partnership」です。日本ではTPP11と呼ばれています。イギリスは2023年に加盟しまして、欧州国家としては初でした。これによって、日本やアジア太平洋市場へのアクセス強化が期待されています。ただし、加盟国との貿易額はEUより圧倒的に小さいため、短期的にはEU離脱の損失を埋めるほどではないというのが多くの経済学者の見方です。

 

世論調査を見ると、若年層ほど「残留すべきだった」と考える傾向があります(世代間対立)*。理由は単純で、EU加盟中は、フランスで働く・ドイツで学ぶ・スペインで生活するということが非常に容易だったからです。若い世代ほどその恩恵を感じていました。

*世代間対立:実は国民投票では、若年層と高齢層でも大きな違いが見られました。若年層ほど残留支持が強く、高齢層ほど離脱支持が強かったと言われています。若い世代は上記の通りで、EU圏内で自由に学び、働き、移住できる恩恵を受けていました。一方、高齢世代は移民増加や急速な社会変化への不安を感じる傾向がありましたので、ブレグジットは「都市vs地方」の対立構造だけではなく、「若者vs高齢者」の対立としても語られることがあります。

 

また、全体としても「離脱は間違いだった」と考える人が「正しかった」と考える人を上回る調査も少なくありません。ただ、EUに再加盟はするのか、という議論に関しては、「近い将来の再加盟はほぼ無い」と言われています。理由は、再加盟には政治的コストが大きすぎるからであり、EU側としても「出たり入ったり自由にはできない(させない)」という立場のためです。そう考えると、今後は「加盟はしないがEUとの関係強化」という方向が現実的と考えられていまして、「離脱は失敗だったかもしれないが、今さら元には戻れない」というのが現在のイギリス社会の複雑な空気感とも言えます。

 

■EU他国への影響

ブレグジット直後、多くの人が「次はフランスか?」「イタリアも離脱するのでは?」と予想をしましたが、実際には逆でした。ブレグジット後、イギリスの離脱の混乱を目の当たりにしたため、「やはりEUに残った方が得だ」という認識が広がり、EUはむしろ団結をしたと言われています。つまり、ブレグジットはEU崩壊の始まりではなく、むしろEUの結束を強める結果になった側面もあるのです。

 

EU側からの視点で見ると、ブレグジットは非常に危険な前例でした。もしイギリスが離脱後に大成功してしまえば、「では自分たちも出よう」と考える加盟国が現れる可能性があるからです。そのためEUは離脱交渉において、「離脱した方が得」という印象を与えないことを重視して動いていたと言われています。

 

ブレグジットは単なるイギリスの問題ではありません。これは、世界中で起きている「グローバル化・移民問題・格差拡大・国家主権」というテーマがぶつかった象徴的な出来事でした。経済合理性だけを考えれば、EUに残る方が得だったという意見は多くあります。しかし一方で、国民の中には「損をしてでも自分たちで決めたい」という感情も存在します。そして民主主義では、時としてその感情が経済合理性を上回ることがあります。

 

そして興味深いことに、2026年現在でも、「成功だったのか失敗だったのか」について完全な結論は出ていません。主権や移民管理という政治的目標を達成したという評価がある一方、経済面ではマイナスだったとする研究が多数を占めています。ただ、一つ言えるのは、ブレグジットは21世紀を代表する政治実験の一つであり、その結果は今後何十年もかけて評価されていくのだろう、ということです。また、ブレグジットはEUとの関係を変えただけではなく、スコットランド独立問題や北アイルランド問題を再び浮上させ、「イギリスとは何か」「連合王国は今後も維持できるのか」という根本的な問いを投げかけるきっかけともなったのです。

 

ぜひみなさんも、ニュースで「EU」や「イギリス」を見かけた際には、その背景にある歴史まで思い出してみてください。

 

では、本日はこのへんで。

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なぜイギリスは4つの国からできているのか?【イングランド・スコットランド・ウェールズ・北アイルランドの複雑な歴史】

みなさんこんにちは、メキシカンダンディパパです。現在開催中の2026年北中米W杯で、イギリスを構成するイングランドとスコットランドが別々に出場していますが、人によっては「そもそもイギリスって1つの国じゃないの?」という疑問が湧いてくるのも自然かと思います。

 

サッカーのW杯ではイングランド代表、スコットランド代表、ウェールズ代表が別々に存在するのに、オリンピックになると「イギリス代表」と一括りになるし、しかもパスポートは同じ、首相も同じ、どちらもポンドを利用。それなのに「国」は4つあるって、なんだか意味が分かりませんよね。

 

そこで今回は、「なぜイギリスは4つの国からできているのか?」について、歴史を遡りながら整理してみたいと思います。まずは、今後の話を理解しやすくするために、下記イラストで、それぞれ4つの国と、アイルランドを加えた5つの国の位置関係を覚えてから、次に進んでみてください。

※アイルランドだけはイギリスではなく独立した別の国です

■まず結論:もともと別々の国だった

なぜこうなっているかの答えを最初に言ってしまうと、「イギリスは元々4つの別々の国だったから」です。現在のイギリス(正式名称:United Kingdom)は、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドから構成されています。

 

日本人の感覚だと、「東京・大阪・福岡」のような都道府県を想像しがちですが、それとは全く違います。彼らは元々、別の王様、別の法律、別の軍隊、別の言語を持っていた独立国家だったので、今のイギリスは『統一された国家が分裂した』のではなく、『複数の国家が統合してできた国家』なのです。

 

■イングランドとは何者か

まず中心になるのがイングランドです。首都ロンドンがある地域で、人口約5,700万人。イギリス全体の人口の8割以上を占めています。つまり、「イギリス=イングランド」と勘違いされやすいのは、人口的に圧倒的に大きいからです。歴史的には、5世紀頃にゲルマン系民族(アングロ・サクソン人)が移住し、多くの王国が作られました。やがて統一されてイングランド王国になります。そして中世以降、周辺地域を吸収していくことになります。

 

また、イングランドが他を吸収していくわけですが、その理由としては、ロンドンという巨大港湾都市を持っていたこと、農業生産性が高かったことや人口が多かったこと*、そして、ノルマン征服(1066年)*後に中央集権国家を作っていって国家として進んでいた、という要素があります。

*農業生産性が高く、人口が多かった:イングランドは島の中で最も平野が多く農業に適していました。一方で、ウェールズは山岳地帯、スコットランドは高地が多く、人口規模でも大きな差がありました。つまり、近代国家が形成される前から、イングランドは人的・経済的に圧倒的に有利な条件を持っていたのです。

*ノルマン征服とは?:フランス北部ノルマンディー公国の支配者だった ウィリアム1世(征服王ウィリアム)が、1066年にイングランドへ侵攻して王になった出来事です。きっかけは、イングランド王エドワード懺悔王 が後継者を残さずに死去したことでした。王位継承をめぐって複数の有力者が「自分こそ正当な王だ」と主張し、その一人だったフランスのウィリアムも王位を要求します。1066年10月、両軍はヘイスティングズの戦いで激突し、ウィリアムが勝利したことで、彼はイングランド王ウィリアム1世として即位しました。この出来事は単なる王位争いではなく、イングランドの歴史を大きく変えました。征服後の支配者層(王侯貴族や高位聖職者)は主にノルマン系でフランス語を話し、一般庶民は古い英語を話していました。そのため両者の言語が長い時間をかけて混ざり合い、現在の英語の基礎が形作られました。例えば、Beef(牛肉)、Pork(豚肉)、Government(政府)、Parliament(議会)、Justice(司法)などはフランス語由来の単語です。面白いのは、「動物の肉」ではなく、「動物そのもの」を表す単語は英語系が残ったことです。Cow(牛)、Pig(豚)、Sheep(羊)などの農民が使う言葉は英語系が残った一方、Beef(牛肉)、Pork(豚肉)、Mutton(羊肉)などの貴族が食卓で使う言葉はフランス語系が入りました。つまり、「動物を育てる人」と「食べる人」の言語が違った名残が、今の英語にも残っているのです。

 

ノルマン征服の後、イングランドはヨーロッパでもかなり早い段階で全国的な税制度、戸籍調査、裁判制度を持つ強い国家になっていきました。つまり、ウェールズやスコットランドが弱かったというより、イングランドが異常に強かったためにこうなった、という理解をしていただくと良いかと思います。

イングランドの国旗

 

■最初に取り込まれたウェールズ

ウェールズはイングランドの西側に位置していて、人口は約300万人。ウェールズ人はケルト系民族であり、英語とは異なるウェールズ語を持っています。今でも道路標識は、英語・ウェールズ語の二か国語表記です。中世には独立したウェールズ諸侯が存在していましたが、13世紀後半にイングランド王エドワード1世によって征服されました。その後、1536年・1543年に成立した「ウェールズ併合法」によって完全にイングランドへ統合されます。つまり、ウェールズは軍事的征服によって統合された地域と言えます。ちなみに現在でもイギリス皇太子が持つ称号「プリンス・オブ・ウェールズ」は、この征服の歴史に由来*しています。チャールズ国王も即位前はプリンス・オブ・ウェールズでした。

*「プリンス・オブ・ウェールズ」は実は少し複雑な称号:次期国王≒イギリスNo.2であるイギリス皇太子が持つ称号として有名なのが「プリンス・オブ・ウェールズ」です。チャールズ国王も即位前はこの称号を持っており、現在は長男のウィリアムが引き継いでいます。一見すると「ウェールズの王子」という名誉ある称号に見えますが、その起源は13世紀にイングランド王エドワード1世がウェールズを征服した歴史にあります。征服後、(ウェールズの支配者が消えたことを示すために)イングランド王家の後継者にこの称号を与えるようになったため、歴史的には「ウェールズを支配下に置いたことの象徴」とも言えるのです。そのため、ウェールズの人々の受け止め方は様々です。イギリス王室への敬意から好意的に見る人もいますが、一方で「征服の歴史を思い出させる称号だ」として違和感を持つ人もいます。特にウェールズ民族主義者や独立派の中には、この称号に批判的な意見もあります。つまり、「プリンス・オブ・ウェールズ」は単なる皇太子の肩書きではなく、ウェールズとイングランドの複雑な歴史を今に残す、少し政治的・歴史的な意味を持つ称号なのです。ちなみに、ウェールズ政府を指揮するわけでもなく、ウェールズの予算を決めるわけでもなく、ウェールズの法律を決めるわけでもないので、直接的な権限や利益はほぼなく、ただの象徴的称号なのです。

*ウェールズ人は今でもイングランドをどう思っているのか:実は現在のウェールズでは、「独立賛成は20~30%前後でイングランドとの共存派が多数」です。一方で、「ラグビー」「ウェールズ語」には強い誇りがあります。つまり、「独立したいわけではないが、ウェールズ人であることは大切」という意識なので、これから出てくるスコットランドとはかなり違います。

ウェールズの国旗

 

■スコットランドは征服されなかった

スコットランドは北側に位置する国で、人口は約550万人です。ウェールズと違い、イングランドに征服されませんでした。これが大きな違いです。中世を通じてイングランドと何度も戦争を行いました。有名なのが映画『ブレイブハート』で描かれたウィリアム・ウォレス*です。彼はスコットランド独立の英雄として今も人気があります。スコットランドは長年独立を維持しました。

*ウィリアム・ウォレス:1297年「スターリング・ブリッジの戦い」で、圧倒的に強大なイングランド軍を破り、一躍スコットランドの英雄となります。その後、一時はスコットランドの実質的な指導者となりました。しかし最終的には捕らえられ、1305年にロンドンで反逆者として処刑されます。ただし、彼の死によって独立運動が終わったわけではありませんでした。むしろ逆で、ウォレスの想いは語り継がれ、その後に現れたロバート・ザ・ブルースが独立戦争を引き継ぎます。そして1314年の有名な「バノックバーンの戦い」でスコットランド軍が勝利し、最終的にスコットランドの独立が認められました。現在でもウィリアム・ウォレスは「スコットランドの自由の象徴」として非常に人気が高く、スコットランド各地には彼の記念碑が建てられています。映画『ブレイブハート』の影響もあり、スコットランド版のジャンヌ・ダルクのような存在として語られることもあります。

ウィリアム・ウォレス

ところが1603年、「王様が同じになる」という大きな転機が訪れます。1603年、イングランド女王のエリザベス1世が後継者を残さず亡くなります。そこでスコットランド王だったジェームズ6世がイングランド王も兼ねることになったこの出来事を「同君連合」と呼びます。簡単に言えば、「王様は同じ、でも国は別」という状態です。例えるならば、一人の社長が2つの会社を経営しているようなものです。この時点ではまだ別国家でした。

 

さらに100年後の1707年、「合同法」によって、イングランド王国とスコットランド王国が正式に統合されました。ここで誕生したのが、グレートブリテン王国(Kingdom of Great Britain)であり、現在のイギリスの原型です。ではなぜ統合したのか。理由は主に経済で、当時のスコットランドは植民地開発で大失敗(ダリエン計画*)し、国家財政が危機的状況でした。一方でイングランドは世界貿易で急成長していましたので、スコットランドからしたときに「一緒になった方が得」という判断がなされたのです。ただし重要なのは、スコットランドは統合後も「教育制度、法律、教会」を維持しました。そのため現在でもスコットランド法はイングランド法と異なります。

*ダリエン計画とは?:1690年代、スコットランドはまだ独立国だった当時、イングランド、スペイン、オランダ、フランスなどが植民地貿易で大儲けしているのを見て、スコットランドも「俺たちも植民地を作って世界貿易で儲けよう!」と考えました。当時から大西洋と太平洋を結ぶ場所は超重要と捉えられていたため、目を付けたのが現在のパナマ付近にあるダリエンでした。現在はパナマ海峡がありますが、もちろん当時はまだありませんでしたので、スコットランド人は、ここに貿易拠点を作ればヨーロッパ⇔アメリカ⇔アジアの中継地になって大儲けできると考えたのです。発想自体は悪くありませんでしたが、計画は大失敗。1698年、約1,200人の入植者が到着しましたが、現実は厳しく、熱帯病(マラリアなど)、高温多湿、食糧不足、スペイン軍の圧力、補給不足に苦しんだ上に、イングランドは当時スペインと外交問題を抱えたくなかったため、スコットランドをほとんど助けませんでした。結果、入植者の大半が死亡し、植民地は放棄、国家プロジェクトは完全崩壊し、国内資本の20~25%程度が投入された国家財政はボロボロになりました。

スコットランド版、大航海時代の一発逆転プロジェクト

スコットランドからすると、「1707年に統合されたが、民族としては今も別の国」という感覚が残っています。さらに、北海油田の存在も大きいのです。独立派は昔から、「北海油田の石油収入があるのだから自立できる」と主張しているのです。

スコットランドの国旗

■北海油田とは?

北海は、イギリスとノルウェーの間にある海です。1960年代後半から巨大な石油・天然ガス田が発見されました。現在でも世界有数の海洋油田地帯なのですが、油田の多くは、スコットランド北東部の沖合にあるため、独立派は昔から、「地理的に見れば石油はスコットランドのものだ」と主張してきました。実際、スコットランド独立派の中心政党である「Scottish National Party」は1970年代に有名なスローガンを掲げました。それが「It's Scotland's Oil(その石油はスコットランドのものだ)」です。1970年代はオイルショックの時代で、原油価格が急騰したため、北海油田から莫大な利益が出ました。そのため、もし当時既にスコットランドが独立していたら、人口550万人程度の国が石油、天然ガスから巨額の税収を得られた可能性があります。

特に有名なのがブレント油田、フォーティーズ油田、ニニアン油田

よく比較されるのがノルウェーで、実はスコットランド独立派が理想としている国です。ノルウェーも北海油田を持っていますが、ノルウェー政府は石油収入を「Government Pension Fund Global」という政府基金に積み立てました。現在その規模は世界最大級で、数兆ドル規模に達しています。一方でイギリス政府は、石油収入の多くをその時々の予算に使ってしまったため、スコットランド独立派は「ロンドンが石油収入を使い切った」「ノルウェー方式*ならもっと豊かになれた」と批判することがあります。

*成功したノルウェー方式に関しては、下記記事の中で詳細も少し書いていますので、ぜひそちらもご覧ください。

kuma0112.hatenablog.com

 

ではスコットランドが独立できるほど儲かるのか?というと正直そこが難しいところです。1970〜80年代ならかなり説得力がありましたが、現在は事情が変わっていまして、①産出量が減っている(ピークは1999年頃で、その後は減少傾向)、②原油価格が不安定(原油価格は高い年と安い年の差が激しいため、国家財政を支えるには不安定)、③脱炭素の流れ(現在ヨーロッパはEV・再生可能エネルギーへ移行中)という理由があるため、将来的に石油依存は減り、この北海油田だけで国の財政収入を賄うのは難しい可能性も高いのです。

 

それでも面白いのは、北海油田が経済合理性からではなく、「自分たちは資源を持っている」「小国でもやっていける」という「心理的な支柱」になっていることです。

 

■アイルランドも統合される

次にアイルランドです。アイルランド島は長くイングランドの影響下にありました。そして1801年、「アイルランド合同法」によって、グレートブリテン王国とアイルランド王国が統合されます。ここで誕生したのが、「United Kingdom of Great Britain and Ireland」です。つまり、現在のイギリス+アイルランド全島が一つの国家になったのです。この時代が最盛期でした。

 

この流れで、19世紀にはイギリスは世界最大の帝国になります(大英帝国)。よく言われるのが、「太陽の沈まない帝国」です。最盛期には、インド、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、香港などを支配していました。世界人口の約4分の1、地球上の陸地の約4分の1を支配していた、まさに超大国です。この最盛期の時代の、イギリス人の「自分たちはヨーロッパの一国ではない」という意識が、後のブレグジットにも影響しています。

 

■ではなぜ北アイルランドだけ残ったのか

ただ、20世紀になると状況が変わります。アイルランドでは独立運動が激化しました。そして1922年、アイルランド自由国(現在のアイルランド共和国)が独立します。ところが島の北東部だけは残りました。それが現在の「北アイルランド」です。なぜでしょうか。

 

理由は、宗教と民族です。

 

17世紀以降、イングランド政府が大量のプロテスタント系入植者をアイルランドに送り込みました。特に送り込まれたのは北部のアルスター地方(現在の北アイルランド)で、これは「アルスター植民」と言われています。その結果、もともとアイルランド島にいたカトリック系アイルランド人と、プロテスタント系入植者が混在するようになります。北部に多くなっていたプロテスタント系入植者は、「(もともとイギリスから送り込まれているので)アイルランドよりイギリスに残りたい」と考えたのです。その結果、アイルランド島はアイルランド共和国と北アイルランドに分かれました。これが現在の姿であり、後の北アイルランド問題の根っこなのです。つまり、北アイルランド問題はただの宗教戦争ではなく、「植民地支配の後遺症」とも言えます。

正式な国旗ではない、北アイルランドのアルスター旗

 

■北アイルランド紛争

しかし問題は終わりませんでした。北アイルランドでは、先にも述べたように、イギリス残留派(主にプロテスタント系入植者)、アイルランド統一派(主にカトリック)*が混在することとなります。20世紀に入ると、北アイルランドでは(プロテスタント系が主流派だったので)カトリック住民に対する就職・住宅・政治参加などでの差別が問題視されるようになります。1960年代後半になると「差別をなくせ」というカトリック系による公民権運動(デモ)が活発化しましたが、やがて衝突が激化し、武力闘争へと発展していきました。

*イギリス残留派(主にプロテスタント系入植者)、アイルランド統一派(主にカトリック)の違いは?:プロテスタントは、16世紀の宗教改革で分離/教皇の権威を認めない/聖書を重視/イングランドやスコットランドで多数派、という特徴があり、カトリックは、ローマ教皇をトップと考える/伝統や儀式を重視/アイルランドで多数派、というそれぞれの特徴がありましたが、実はそれは重要ではなく、実際にはプロテスタント系は祖先がイギリス人だから「私たちはイギリス人」、カトリック系は祖先がアイルランド人だから「私たちはアイルランド人」という民族意識がメインの対立理由でした。

 

代表的なのが、アイルランド統一を目指した「Irish Republican Army(アイルランド共和軍=IRA)」です。このIRAはもともとアイルランド島にいたカトリック側の組織で、爆破テロや武装闘争を行っていました。一方でイギリス残留派(プロテスタント系入植者側)の武装組織も報復攻撃を繰り返しました。さらにイギリス軍も治安維持のために介入したことで、状況はより複雑になっていきました。

 

特に有名なのが1972年の「Bloody Sunday(血の日曜日事件)」です。北アイルランド第二の都市のロンドンデリーで行われた(差別をなくせという)数千人が参加していた公民権デモに対し、本来は治安維持のために派遣されていたイギリス軍が(武装組織だと勘違いして)発砲し、非武装の人々13人が死亡しました。この事件は世界中に衝撃を与え、それまでは武装闘争に否定的だった多くのカトリック系住民も(もう話し合いだけでは無理だと)、IRA支持へ傾くきっかけになったとも言われています。つまり、Bloody SundayはIRAを生んだわけではありませんが、IRAを巨大化させた事件と言われています。

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【似たような、スコットランドでの話】

実は、スコットランドでの似たような話もありますので、スコットランドで有名なサッカーチーム「セルティック」と「レンジャーズ」を絡めて話していきます。

セルティックにはこれまで日本人選手も多数所属

実は、どちらもスコットランド最大都市であるグラスゴーを本拠地とするチームですが、セルティックはアイルランド系のカトリック住民側のチームで、レンジャーズはイギリス側のプロテスタント系のチームなんです。

 

これには、「スコットランドにアイルランド人が大量移住した歴史」があります。しかも、その移住は単なる移民ではなく、北アイルランド問題とも直結する話です。

 

①もともとスコットランドはケルト文化圏

まず大前提として、アイルランド人とスコットランド人(特に西部・ハイランド地方)は元々かなり近い存在でした。どちらもケルト系民族です。言語も近く、アイルランド語、スコットランド・ゲール語は親戚関係にあります。つまり、イングランド人(アングロサクソン系/プロテスタント)とアイルランド人・スコットランド人(ケルト系/カトリック)という2つの対立構図が元々ありました。

 

②19世紀にアイルランド人が大量流入

決定的だったのが1840年代です。「アイルランド大飢饉(=ジャガイモ大飢饉)」です。ジャガイモ疫病によって、100万人以上が死亡し、100万人以上が移民という大惨事になりました。その時、アイルランド人は主にアメリカ、カナダ、オーストラリアへ向かいました。そして近かったので、スコットランド西部にも大量移住しました。特に、グラスゴーです。当時のグラスゴーは造船、鉄鋼、石炭で急成長していました。労働者が大量に必要だったため、貧しいアイルランド人が流入します。結果として、グラスゴー周辺にはアイルランド系カトリック住民の巨大コミュニティが形成されました。

 

③そこで誕生したのがセルティック

1887年、アイルランド系カトリックの貧困層支援のため、ヴァルフリート修道士が設立したのがセルティックFCだったのです。目的はサッカーではなく、実は「アイルランド移民の貧困救済」でした。スコットランドとアイルランドは、もともと同じケルト文化圏で、クラブ名の「セルティック(Celtic)」という言葉自体が、「ケルト人(Celtic peoples)」を意味しています。

 

④対するレンジャーズ

一方のレンジャーズFCは、グラスゴーの既存住民層に支持されました。そのため、歴史的にはプロテスタント、イギリス王室支持、英国統一派の色彩が強くなります。その結果、単なるサッカーではなく「セルティック=アイルランド系、カトリック、労働者階級」で、「レンジャーズ=プロテスタント、ユニオニスト(イギリス支持者)」という対立構図が生まれました。

 

⑤北アイルランド問題ともつながる

さらに複雑なのが、北アイルランドではカトリック=アイルランド統一派、プロテスタント=英国残留派という対立があったので、スコットランドのクラブも自然に政治色を帯びていきます。例えば昔は、セルティックサポーターがアイルランド国旗を振る、レンジャーズサポーターがユニオンジャック(イギリス国旗)を振る、という光景も珍しくありませんでした。だから有名なオールドファームダービー(セルティック vs レンジャーズ)は、単なるダービーマッチではなく、宗教・民族・政治・歴史の全部が乗っかった試合だったのです。世界でも最も特殊なダービーの一つと言われます。

左:レンジャーズ、右:セルティック

*セルティックには日本人選手が多く、レンジャーズに日本人選手がほとんどいないのは、政治や宗教は関係なく、ただ単に、2005年に中村俊輔がセルティックに移籍し大成功したことで、セルティックから見た日本人選手への印象が良いこと、そして2021年6月から2023年6月までの約2年間セルティックの監督をしていたアンジェ・ポステコグルーは元横浜F・マリノスの監督をしていたために、日本市場・日本人の特徴をよく知る監督だったことが理由です。

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こうして1960年代後半から1990年代後半まで約30年にわたり、爆破テロ、銃撃、暗殺、暴動が繰り返されました。この時代は「The Troubles(北アイルランド紛争)」と呼ばれていて、死者は約3,500人、負傷者は4万人以上にのぼり、北アイルランドの人口が約150万人規模ということ考えると非常に大きな犠牲でした。(現在の日本人口約1億2,400万人に当てはめてみると、30年間にわたってテロや爆弾事件が続き、死者が約29万人、負傷者が約400万人出た、くらい大きなインパクトになります。)

 

転機となったのは1998年、イギリス政府、アイルランド政府、そして北アイルランドの主要政党が合意し、Good Friday Agreement(ベルファスト合意/聖金曜日合意)が成立しました。この合意によって、武力闘争の終結、権力分担型自治政府の設立、北アイルランド住民が将来の帰属を民主的に決める権利の承認などが定められました。これにより大規模な暴力はほぼ終息し、現在の平和につながっています。

 

■そしてブレグジットへ

このように、イギリスは1707年の合同法(=統合)から300年以上が経った現在でも、スコットランド独立問題や北アイルランド問題を抱えていまして、特に2016年のEU離脱(ブレグジット)は、それらの問題を再び浮上させるきっかけとなりました。実際、「イングランド、ウェールズはEU離脱支持」「スコットランド、北アイルランドはEU残留支持」と、4つの国で意見が分かれたことで、スコットランド独立論や北アイルランド統一論が再び注目されています。ブレグジットについては複雑な経緯がありますので、次回の記事で詳しく解説したいと思います。

 

■結局、イギリスとは何なのか

ここまで見てくると分かるのですが、イギリスとは、日本やフランスのような単純な国家ではありません。実は現在のイギリスは、「完成した国家」というより、「今も統合を続けている国家」と言った方が近いかもしれません。今でも「イングランド人、スコットランド人、ウェールズ人、北アイルランド人」という意識が残っています。私たちがニュースで見るイギリスは、一つの国というより、歴史的に異なる国々が共存し続ける巨大な実験国家なのかもしれません。

 

そう考えると、ニュースで見るイギリスも少し違って見えてくるのではないでしょうか。

では、本日はこのへんで。

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オシムとストイコビッチが生まれた国の悲劇【ユーゴスラビアの7か国への分裂と紛争の歴史】

みなさんこんにちは、メキシカンダンディパパです。小学生の頃は、サッカーゲーム「ウイイレ」で、国として「ユーゴスラビア」が選べたのですが、いつの日か選べなくなってしまったことをよく覚えています。サッカー好きにとっては馴染みが深い元サッカー日本代表監督のイビチャ・オシム、そして妖精とも言われたストイコビッチが生まれた国が、ユーゴスラビアです。

 

現在、2026年北中米W杯開催中で、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナが出場していますが、とくに後者のボスニア・ヘルツェゴビナに関しては「どこ???」という人も多いかと思いますので、今回はユーゴスラビアに関して、どんな歴史があって複数の国々に分かれたのかを、解説していきます。

 

まずは、地図にてユーゴスラビアが分裂したあとの7つの国の位置関係をそれぞれご確認ください。

 

■第一次世界大戦と「第一のユーゴ」
19世紀、バルカン半島はオスマン帝国やオーストリア=ハンガリー帝国の支配下にあり、独立を求める民族主義が渦巻く「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていました。大国同士の対立(ドイツ vs イギリス・フランス)、軍拡競争、民族問題(バルカン半島)、同盟ブロックの固定化など、欧州の緊張状態が張り詰めていた1914年、ボスニアの首都サラエボで、セルビア人民族主義者の青年によってオーストリア皇太子が暗殺される「サラエボ事件」が発生します。これが引き金となり、ヨーロッパの「同盟関係」が一気に連鎖し、オーストリアはセルビアに宣戦布告、ロシアはセルビアを支援、ドイツはオーストリア側で参戦、フランスはロシア(&セルビア)側で参戦、イギリスはドイツの行動に対抗してロシア(&セルビア)側で参戦、など一気に世界規模の戦争に発展し、第一次世界大戦となりました。第一次世界大戦自体は、1918年11月に戦闘終了し、1919年にヴェルサイユ条約が締結されたことで正式な終結を迎えました。

 

その後、1929年に南スラブ人の悲願だった「南スラブ人の国(ユーゴスラビア)」が成立します(1918年に「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」として建国され、1929年に国王アレクサンダル1世が「ユーゴスラビア王国」に改称したというのがリアルな実態)。しかし、南スラブ人はセルビア人の他にもスロベニア人やクロアチア人、ボスニア人などもいますが、実態はセルビア王室によるセルビア人主導の国だったため、クロアチア人など他民族の不満が爆発し、国内はガタガタだったのです。これが、第一のユーゴスラビアです。

■第二次世界大戦と「第二のユーゴ」:ナチス・ドイツの侵攻と英雄チトーの登場

チトー率いる共産主義の抵抗軍(パルチザン)は、ソ連軍の全面的な助けを借りず、自力でドイツ軍を追い払いました(パルチザン闘争)。これが、後の「ソ連に媚びない独自の社会主義」を貫ける自信に繋がります。よく「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と言われていたほど複雑な国を、チトーは強烈なカリスマと力技(スローガンは、”兄弟愛と団結”)でまとめ上げ、戦後のユーゴスラビアの黄金期を築きました。当時は冷戦真っ只中でしたが、上記記載のように、ソ連(東側)ともアメリカ(西側)とも適度な距離を置く「非同盟」という独自のスタイルで、ユーゴスラビアは独自の繁栄を誇っていました。

 

■崩壊へのカウントダウン:チトーの死と経済不況
ところが1980年、そのチトーが亡くなってしまい、冷戦も終結に向かう中で、そこから風向きが変わっていきます。まとめる人がいなくなったことで、各共和国の抑えられていたナショナリズムが噴出し、各地で独立を目指す動きが勃発しました。特にセルビアでは、ミロシェヴィッチ大統領が強硬路線を取り、「大セルビア主義」を掲げ、「セルビア中心の国家」を目指す動きをしていましたので、それに危機感を覚えたスロベニアとクロアチアが、1991年に独立宣言をします。これに対して、連邦を維持したいセルビア側(旧ユーゴ軍)が軍事介入したことで、武力衝突が始まりました。これが、悲劇の「ユーゴスラビア紛争」の始まりです。

 

■ユーゴスラビア紛争(1991年~2001年)

ユーゴスラビア紛争とは、十日間戦争(1991年)、クロアチア紛争(1991年~1995年)、ボスニア紛争(1992年~1995年)、コソボ紛争(1998年~1999年)の4つの戦争を指します。

 

全て「セルビアからの独立」となりますので、下記の地図も見ながら、セルビアを中心に見てもらうとわかりやすいかと思います。

それぞれの国の独立

①十日間戦争(1991年6月):「スマートなスピード独立」

ユーゴの中で最も西側に近く、経済も豊かだったスロベニアが「もうセルビアには付き合えない」と見切りをつけたのが戦争の背景です。ユーゴスラビア連邦軍(実質セルビア軍)が介入しましたが、スロベニア側の抵抗が予想以上に組織的だったこと、また、セルビア本国も「スロベニアにはセルビア人が少ないから、深追いしなくていいか」と判断したことから、わずか10日で決着がつきました。紛争全体の中では最も被害が少なかったですが、これが「崩壊のドミノ」の最初の一枚となりました。

⇒1991年6月、スロベニアが一番乗りで独立!10日間でほぼ決着!

 

②マケドニアの独立(1991年9月):「スロベニアとクロアチアの陰で平和的に独立」

1991年はじめに主権宣言をしていたマケドニアでも(スロベニアの独立を見て)独立を問う国民投票が行われ、圧倒的多数の賛成を得ました。これに基づき、1991年9月17日に独立を宣言しました。当時、セルビアはクロアチアやボスニアでの戦線に手一杯でしたし、マケドニアにはセルビア人が少なかったこともあり、セルビア軍は大きな抵抗を見せず、平和的に撤退していきました。

⇒1991年9月、マケドニアが二番目に、しかも平和的に独立!(独立後は苦労あり*)

*独立後の苦労:独立自体は平和でしたが、その後は大変でした。隣国ギリシャが「マケドニアという名前はギリシャの歴史(アレクサンドロス大王など)を盗んでいる」と猛反発し、長らく国連への加盟やEU/NATO加盟交渉が妨げられており、最終的には2019年に「北マケドニア」に改名して解決しました。また、1999年のコソボ紛争で大量のアルバニア系難民が流入し、国内の民族バランスが崩れて内戦寸前までいった時期もありました。

 

③クロアチア紛争(1991年~1995年):「奪われた領土、執念の奪還」

クロアチア側は本格的な地獄です。クロアチアも独立しようとしたら、国内に住んでいたセルビア人たちが「俺たちはセルビアとして残る!」と武装蜂起し、クライナ・セルビア共和国を樹立しました。1991年~1992年の前半戦は圧倒的にセルビア側優位で、セルビア(ユーゴ連邦軍)の強力なバックアップを受けた武装勢力に、力ずくで追い出され、クロアチアは領土の3分の1を占領されました。家を焼き、殺害し、「ここにクロアチア人はいない」という状態を作ることで、実効支配を固めようとしたのです。対して、1995年頃の後半戦は、クロアチアが数年かけて軍を立て直していたこともあり、1995年「嵐作戦*」で一気に逆転し、奪還を果たしました。

*嵐作戦:第二次世界大戦後のヨーロッパで最大規模の電撃的な陸上軍事作戦。クロアチア人にとっては、セルビア人武装勢力が樹立した「クライナ・セルビア人共和国」に占領されていた土地を取り戻し、国家の統一を果たすことが悲願でした。1995年8月4日の早朝に開始されたこの作戦は、驚異的なスピードで進みました。それまで劣勢だったクロアチア軍は、数年かけて軍を再編し、欧米(特にアメリカの民間軍事会社など)の指導を受けて近代的な軍隊に変貌していました。約13万人から20万人とも言われる大規模な兵力を投入し、セルビア人勢力の防衛線をまたたく間に突破、わずか3日後の8月7日には主要な目的を達成、作戦終了が宣言されました。クライナ・セルビア人共和国の「首都」とされていたクニンが陥落したことで、セルビア人勢力は崩壊しました。この際、そこに住んでいた約20万人のセルビア人市民が、報復を恐れて(あるいは強制的に)一斉にセルビア本国へ逃亡しました。この過程で、逃げ遅れたセルビア人の高齢者が殺害されたり、家を壊されたりする事案が発生しました。この作戦は、クロアチアにとっては「誇り高き解放」ですが、国際的には「民族浄化*」の側面が強く批判されています。

*民族浄化:特定の民族をその土地から追い出したり、殺害したりして、自分たちの民族だけの土地にしようとする行為。

 

このように、最終的にはクロアチアが勝利をしましたが、多くの難民と深い傷痕を残しました。死者・行方不明者は約2万人以上(クロアチア側約15,000人、セルビア側約6,000〜7,000人、避難民は約50万人以上と言われています。嵐作戦の際には、国際社会からクロアチアが非難されましたが、同じようなことを紛争初期にはセルビア側も同様の行為を行っており、「どちらが」ということではなく、「お互いに」凄惨な追放や虐殺が行われたのです。

⇒1995年8月、地獄のような紛争を経て、クロアチアが独立!

*クロアチアは1991年に独立を宣言していますが、実際にはその後4年間の戦争を経て、1995年に軍事的・実効的な独立を確立したと見るのが実態に近いです。そのため、上記地図上では歴史上の独立年を正と捉え、1991年独立にしています。

 

④ボスニア紛争(1992年~1995年):「三つ巴の地獄、迷宮の戦場」

ユーゴ紛争のクライマックスにして、最も悲惨な戦いが、このボスニア紛争です。ボスニア・ヘルツェゴビナは「ムスリム人(ボスニア人)」「セルビア人」「クロアチア人」が混ざり合って住んでいたため、領土の奪い合いが極めて壮絶でした。1984年に冬季オリンピックが開催された華やかな都市サラエボは、1992年4月から1996年2月までの約4年間、周囲の山々を占拠したセルビア人勢力によって完全に包囲されました(サラエボ包囲*)

*サラエボ包囲:市内のメインストリートは、山からの狙撃兵に常に狙われていました。住民は買い物に行くのも、水を汲みに行くのも命懸けで、走って通りを渡らなければなりませんでしたし、電気、ガス、水道が止められたため、住民は公園の木を切り倒して燃料にし、雨水を溜めて生活をしていました。その包囲網をくぐり抜けるため、空港の滑走路の下に全長800mのトンネルが掘られ、そこからわずかな食料や武器が運び込まれていて、これが市民の唯一の生命線だったと言われています。

 

そのサラエボ包囲が行われている最中の1995年7月、スレブレニツァの虐殺という、第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の集団虐殺も行われていました。スレブレニツァは国連によって「安全地帯」に指定され、オランダ軍のPKO部隊が駐留していました。しかし、装備も権限も不十分だったオランダ軍は、進攻してきたセルビア人勢力(ラトコ・ムラディッチ将軍率いるスルプスカ共和国軍)を止めることができませんでした。その結果、セルビア兵は、避難していたムスリム人(ボスニア人)のうち、12歳から77歳までの男性と少年を家族から引き離しました。彼らはバスに乗せられ、近隣の野原や倉庫で組織的に射殺されました(計8,000人以上)。遺体はブルドーザーで集団墓地に埋められ、証拠隠滅のために後で別の場所に掘り返して移されましたので、今でもDNA鑑定によって遺骨の特定作業が続いています。

そんなボスニア紛争が複雑なのは、敵と味方がコロコロ変わった点です。当初は「ムスリム人(ボスニア人)&クロアチア人」vs「セルビア人」だったのですが、途中からクロアチア人が「自分たちも領土が欲しい」と欲を出し、ムスリム人(ボスニア人)を攻撃し始めましたので、ムスリム人(ボスニア人)vsクロアチア人vsセルビア人の三つ巴となりました。そして終盤には、アメリカの仲介により、再び「ムスリム人(ボスニア人)&クロアチア人」が手を組み、セルビア人を追い詰めました。”昨日の友人が今日は自分の家を焼く敵になる”、この心理的な恐怖が、戦後の民族間の溝をより深いものにしました。

 

1995年、最終的にはNATOによる大規模な空爆を経て、ようやく停戦合意(デイトン合意)がなされました。しかし、その中身は非常に特殊です。ムスリム人(ボスニア人)とクロアチア人の居住区であるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦(=領土の51%)と、セルビア人の居住区であるスルプスカ共和国(セルビア共和国=領土の49%)が1つの国の中に同居し、中央政府の議席や大統領(3民族から1人ずつ選出される輪番制)を分け合っています。今でも「1つの国の中に2つの主体がある」という、世界でも類を見ないほど複雑な統治システムで、ギリギリのバランスを保っています。

⇒停戦前の1992年に住民投票を行い、ボスニア・ヘルツェゴビナはユーゴスラビア連邦(セルビア)から独立!(内情としては1つの国の中に2つの主体がある完全独立とは言いにくい状態ではあるが、現在も国連に加盟している一国としては認められています。)

 

⑤コソボ紛争(1998年~1999年):「空飛ぶ正義と、止まらない憎しみ」

日本人には少し理解しにくいのですが、セルビア人にとってコソボは単なる領土ではなく、「民族の魂の故郷(エルサレムのような場所)」です。1389年、セルビア王国がオスマン帝国と戦い、敗れながらも英雄的に散った「コソボの戦い」の舞台です。ここには古いセルビア正教の修道院が数多く残っています。しかし、長い年月の間にセルビア人は流出し、代わりにアルバニア人が流入したことで、紛争直前には人口の90%がアルバニア人になっていました。「実際に住んでいるのは俺たち(アルバニア人)だ」という主張と、「歴史的にここは俺たちの聖地だ(セルビア人)」という主張が真っ向からぶつかったのです。

 

そんなセルビア国内にある「コソボ自治州」では、チトーの死後、セルビアのミロシェヴィッチ政権はコソボの自治権を剥奪し、アルバニア人への職業差別や言語弾圧など、長年にわたる抑圧を続けていました。ボスニアなどの惨劇も目の当たりにしていたアルバニア人は「平和的な交渉では独立できない」と考え、この長年の抑圧への対抗として、分離独立を求める武装組織「コソボ解放軍(KLA)」を結成し、セルビアの警察や軍に対してゲリラ戦を仕掛けました。これに対し、ミロシェヴィッチ大統領は「テロ掃討」の名目で村々を焼き払い、アルバニア人を追い出す猛烈な軍事弾圧(=民族浄化)が再び始まりました。欧米諸国はこれに対して「第二のボスニア(虐殺)はさせない!」とセルビアに対して激怒し、1999年3月、国連の決議なしに(セルビアと親しいロシアや中国が拒否権を使っていたため、国連としての軍事制裁は決まらず)NATOがセルビア(ベオグラード)を空爆するという、国際法的にも「人道的な目的(虐殺阻止)なら国際法を無視しても良いのか?」と大きな議論を呼ぶ事態になりました。 78日間にわたり、セルビアの首都ベオグラードの政府施設、テレビ局、橋などが狙われました。この際、中国大使館が誤爆される事件も起き、国際的な緊張が極限まで高まりました。最終的には、セルビア軍が撤退し、コソボは国際管理下へ。そして2006年にモンテネグロが分離したことで「ユーゴスラビア」という名は完全に消滅しました。

⇒2008年にコソボは独立宣言!*

2008年にコソボ独立宣言*:日本やアメリカ、欧州の多くは認めましたが、セルビア、ロシア、中国、そして自国内に分離独立問題を抱えるスペインなどは認めていません。小さい民族が勝手に独立を宣言してそれが認められると、自国内でも同じようなことが起こりえるためです。現在は、コソボ北部に住むわずかなセルビア人住民と、アルバニア人の政府との間で、今でも車のナンバープレートの問題などをきっかけに暴動が起きるほど、一触即発の状態が続いています。

 

⑥モンテネグロの独立:「熟年夫婦の円満離婚??」

モンテネグロの独立は、他の国々のような「血を流す悲惨な戦争」ではなく、非常に珍しいプロセスを辿りました。モンテネグロ人とセルビア人は、民族的にも宗教(セルビア正教)的にも非常に近く、「同じ民族が二つの国に分かれているだけ」と言われるほど親密でした。実際に、1990年代のクロアチア紛争やボスニア紛争では、モンテネグロは一貫してセルビアを支持し、一緒に戦いました。また、他の4カ国が去った後、1992年にセルビアとモンテネグロだけで「新ユーゴスラビア連邦共和国」を結成するほど親密だったのです。


ただ、1990年代後半、コソボ紛争などで国際社会から孤立し、NATOの空爆まで受けるセルビアに、モンテネグロは愛想を尽かし始めます。同時期に、モンテネグロは観光業を重んじ、西側諸国(EU)との関係を改善して経済を潤したいと考えていましたので、1999年には、セルビアの通貨「ディナール」を捨てて、勝手に「ドイツマルク(後にユーロ)」を導入してしまいます。経済的にはこの時点で独立が始まっていたと言えます。ただ、2003年、国際社会(EU)はこれ以上の混乱を避けるため、無理やり両国をなだめて「3年間は独立を我慢する」という約束付きで「セルビア・モンテネグロ*」という緩やかな共同国家を作らせました。


3年間の猶予が明けた2006年5月、独立を問う住民投票が行われましたが、混乱を恐れたEUは、非常に高いハードルを課しました。条件としては、有権者の50%以上が投票し、かつ「賛成が55%以上」であること。結果としては、「賛成55.5%」。わずか0.5%の差で条件をクリアし、2006年6月にモンテネグロは独立を宣言しました。これにより、1918年から続いた「ユーゴスラビア」という枠組みの継承国家が完全になくなったのです。

⇒2006年6月、モンテネグロが独立し、ユーゴスラビアは完全に消滅…!

*セルビア・モンテネグロ:2006年のドイツW杯にこの国名で出場しましたが、大会期間中に独立が決定したため、「大会中に消滅した国」として話題になりました。約3年間という非常に短命な国でした。

 

独立後のモンテネグロは、セルビアとは異なる道を力強く歩んでいまして、2017年にはNATOに加盟。現在はEUにも加盟しようとしていまして、旧ユーゴ諸国の中で、スロベニア、クロアチアに次いで「最もEU加盟に近い国」と言われています。また、「黒い山」を意味する国名の通り、美しい山々とアドリア海のビーチを武器に、ヨーロッパ有数のリゾート地として成功しています。

 

ユーゴスラビアの歴史は、「国境は地図上では簡単に引けても、人の心の境界線はそう簡単には引けない」ということを教えてくれます。

 

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